全てのゲノム編集は人の尊厳を奪う

 では、病気の治療以外の目的で私の受精卵の遺伝子を変更されるとしら、どうだろうか。前述の「すべり坂」の問題だ。

 これまでにも、「教育」を通じて人間を作り直すことはしばしば行われてきた。例えば、最近、大相撲で優勝した貴景勝もその例にあたるかも知れない。貴景勝が子どもの頃から、彼の父親は息子を相撲取りにするために、食費に月30万円をかけ、栄養豊富な食事を大量に食べさせてきた。貴景勝も子どもの時からそれに納得していたようである。

 このようなトレーニングや食トレならまだよいが、今後、自由主義や個人主義の考えが一層強まれば、「自己責任の範囲で、本人覚悟の上ならば」という条件で体細胞の遺伝子改変が認められる世の中になるかもしれない。「自由化社会では競争に打ち勝つために自らをできるだけ最適なものに作り上げることが大事なのだ。そのためには遺伝子を改変するのが一番効率的だ」として、人々は、ドーピングの代わりに、ゲノム改変を行う。そんなことも容認されるかも知れない。

 また親が描いた理想の設計図に基づき、受精卵の段階で子どもの遺伝子改変を行い、「デザイナーベビー」を誕生させるかも知れない。ゲノム編集技術を用いてあらかじめ受精卵を改変しておけば、教育のような手段に頼らなくても理想の体を作ることも可能かもしれないからだ。そうなれば、大相撲ファンの夫婦は、生まれてくる息子を相撲取りにさせるため、体が大きくなるような遺伝子改変を行ったデザイナーベビーを生むようになるかもしれない。

 しかし、生まれてくる本人が、「相撲取りになんかなりたくない」と思うような子だったら、それは悲劇というしかない。本人納得の上での遺伝子改変なら許容されるかもしれないが、受精卵において遺伝子を改変する場合、本人の意思の確認のしようがない。つまり遺伝子改変により生まれた子供は、他者が設計した人生を生きることを余儀なくされるのである。自分のアイデンティティーと自分の自由を侵害されたと、親を訴えるかもしれない。もちろん、彼の人間としての尊厳は深く傷つけられることになる。

 ヒトゲノムは人の設計図と言われている。ヒトゲノムなしには人間は存在し得ない。しかし、ヒトゲノムと人間(私)とは同一ではない。私はゲノムにより構成されるけれどもゲノムと同一ではない。それ以上の存在である。その主体である私が、ゲノムにより測定され、改変されるとしたら、まさに私がゲノムにより支配されているということである。ゲノムが私の生殺与奪の権を握ったということである。

 イギリスの社会学者であるローズは、「これらはもはや単なる医療技術や健康の技術ではない。それらは生の技術である」、「現代のバイオポリティックスは、生命の被造物としての人間の生命能力そのものをコントロールし、管理し、操作し、立て直し、調整するという増大するわれわれの能力と関わっている。それは剥き出しの生(ゲノム)が行う政治である」。「良き生――ビオス――についての問いは、本質的にわれわれの動物的生――ゾーエー(ゲノム)の生体プロセスの問題にもなったということである 」(『生そのものの政治学』法政大学出版局)と指摘している。

「尊厳」とは単なる価値とは異なる。尊厳はほかのものと比較衡量不可の絶対的価値である。人間は、自らの自律性ゆえに、尊厳を付与された存在なのである。だからいかなるものによっても道具化されない存在なのである。この人間が着床前診断により評価され、見積もられ、ゲノム編集技術により操作・改変される限り、すでにその尊厳を奪われているのである。これがまさにゲノム時代の人間の直面する倫理的問題なのだ。しかもそのことにさえ人間は気づいていないという絶望的状況にいるのだ。中国の科学者だけではない。日本の医師や科学者だって、この倫理観の瀬戸際から今にも飛び出してしまいそうな状況にあるのだ。

 先に抜粋した日本医師会・医学会声明の初めの段落は、この状況に密かに対抗する激しい警鐘だ。少なくとも私はそう解釈している。