1944年(昭和19年)、劣勢に転じていた戦局を打開するため、日本海軍は小型のモーターボートに爆薬を搭載して体当たり攻撃をする特攻兵器を開発し、「震洋」と名付けた。震洋の基地はフィリピン、台湾、沖縄、九州、四国、関東などに次々と設置されていく。全部で100以上の「震洋隊」が組織され、鮫ヶ浦はおそらく配備された最後の基地と推測される。

ボートの搬送に使われたものか、がっしりした鉄枠も放置されていた

 小型艇の震洋は、軽量化と量産のしやすさから船体にはベニヤ板が使われていた。乗員1名の「一型艇」は全長5mほどのボートの船首に250kgの爆薬を積み、船体中央部には当時入手しやすかった6気筒の自動車エンジンが搭載された。乗員2名の「五型艇」(一型艇より一回り大きい)とあわせて、6000艇以上が作られたという。

 爆薬とエンジンの位置が非常に近い構造のため、配備された基地内で誘爆事故が起きることもあった。戦局悪化により搭乗する飛行機がないため、海軍飛行予科練習生で震洋に乗り込むことになったものも多く、輸送中や訓練時に攻撃を受けるなどして、震洋の戦死者は2500人を超えているそうだ。

 ある記録によると、鮫ヶ浦に震洋の基地が配備されたのが1945年7月とある。終戦のわずか1カ月前のことだ。本土決戦に備えての配備だったかもしれないが、結局、鮫ヶ浦から震洋は出撃することなく戦争は終わったようだ。

残る資料は少ないが、確かにそこにあった

大鮫入り江から小鮫入り江に通じるトンネル。ここは人が通っている形跡がない

 入り江の岸には格納壕と呼ばれるほら穴がいくつもあり、中の1つは大鮫に隣接する入り江の小鮫まで通じている。いったいこの中に何艇の震洋が隠され、どれだけの人がこの任務に就いていたのか。秘密裏に進められていた作戦のため現存する資料は少なく、当時の詳しい状況を伺い知ることはできない。

 戦後70年以上たち、平成も間もなく終わろうとしているいま、戦争というものを身近に感じる機会は年々減ってきている。眼前に広がる静かな入り江に、そんな歴史があったことが、にわかに信じられない思いだ。だが、確かにその事実があったことを海中に消えていく赤黒く錆びたレールが教えてくれる。