大学教育の責任

 とはいえ、筆者も大学教育に携わる者であり、大学人としての自戒の念を込めて言えば、学生が勉強しない、学業に専念しないことの理由を企業の採用活動(採用基準)の責任にだけするのは、やはり論理が転倒している。

 学生の学業への動機づけをどう喚起し、大学教育をどう実質的に意味のあるものにしていくのかは、以前に書いた「大衆化の衝撃」を受けて以降の大学において、多くの教員たちが苦労し、悪戦苦闘している課題である。そして、結果として、全国の大学教育の現場においては、授業や教育方法の工夫、学生とのコミュニケーション、カリキュラムの編成などにおいて、さまざまな、かつぎりぎりの努力の「痕跡」が(それが、全面的に成功しているとは言わないが)蓄積されてきてもいるのである。

 だから、そうした大学教育の最前線の現場から言わせてもらえるならば、就職活動がこれまで以上に長期化し、学生たちが早い学年から就活に意識を奪われ、「就活モード」へと身を包んでいくような状況が到来するのは、これまでの努力の積み上げを根こそぎ奪うものに見えてしまうのである。

大学はどう動くか

 学業のことは、いったんおいておこう。今後は、少なくとも現在と比較すれば、新卒(在学生)の就活と採用の「通年化」が実質的に進むのだとすれば、大学は、いったいどう動くだろうか。

 少子化の中での大学間競争という環境条件が変わらない以上、多くの大学は、就職実績を維持・向上させていくために、学生に対するキャリア支援・教育の取り組みを強化し、それを、より低学年次へと前倒ししていくことになると考えるのが自然であろう。実際には今でも、大学1年次からのキャリア支援やキャリア教育科目の実施には、多くの大学が取り組んでいる。今後はそれが、よりいっそうグロテスクな姿になってしまうことが危惧される。

 少なくとも文系の場合、企業側が採用基準とするのは、「潜在的能力」と、世間で「人間力」「社会人基礎力」などと言われているコンピテンシーだとしよう。大学入試時点で決まってしまう「スクリーニング」の結果はさすがに覆すことができないが、潜在的能力やコンピテンシーであれば、教育や支援によって多少とも伸ばすことが期待できる。そのため、大学側は、低学年次からの取り組みの強化によって、学生の潜在的能力やコンピテンシーの育成・向上に躍起になるという構図が生まれる。