しかし、「教えない」指導法は、自分で考え、答え、試してみないといけない。能動的に考え、能動的に仮説を立て、能動的に実験する必要がある。このため、頭に記憶が刻まれるのだ。

 失敗は、そうして能動的に動いたときに、すばらしい学習効果をもたらす。「あれだけ考えたから、うまくいくと思ったのに! なぜうまくいかなかったんだ?」。鵜の目鷹の目で、その現象を、しゃぶりつくすように観察する。失敗からものすごい情報を学び取る。能動的に動いたからこそ、学ばずにはいられないのだ。

 私は、もっと「失敗」を前向きに評価したほうがよいように思う。冒頭に紹介したボランティアのように、失敗した体験は、深く刻まれ、上達しようという意欲を引き出す大いなるきっかけになる。被災者のために料理を作ろうと「能動的」になった。しかし失敗の連続。そうなると、必死になって上手くなろうとする。

 これがもし、本人の意思ではなく、命令だったら違っただろう。「私は料理したことがないのに!」と文句ばかり出て、手が血だらけになったことに腹が立つばかりで、命令した人間を恨むかもしれない。「受け身」で始めたことは、失敗の原因を「命令した人間の指導力のなさ」に求め、学ぶ姿勢が失われるからだ。

 しかし、自分から能動的に動いて失敗した場合は、必死に失敗から学ぼうとする。その意欲はすさまじいものになる。このときに成立した学びは、最初からエレガントな「正解」を教えてもらうよりも、はるかに深い学びになる。

 失敗を恐れるのではなく、すばらしいきっかけが得られたのだと喜んでみてはどうだろう。目下の課題を解決するという意味では遠回りだが、若者の成長という意味では、最速、最良の結果が得られることだろう。なにせ、「上手くいく方法」だけを学ぶのではなく、「その現象そのもの」すべてを学び、失敗も成功も含めて、深く深く理解するのだから。

 失敗恐怖症から、そろそろ日本も脱却し、失敗から学ぶことの楽しさに目覚めてみてはどうだろうか。