前々回(世界初の「グローバル商品」は何だったのか? http://jbpress.ismedia.jp/articles/-/54441)は綿花栽培の起源に迫り、前回(綿はどのようにしてグローバル商品になったのか http://jbpress.ismedia.jp/articles/-/54600)は綿花栽培から綿紡績、綿織物産業がインドと中国において発展した経緯を俯瞰してきました。

「綿」シリーズの最終回となる今回は、その世界の綿産業の構図が一気に変わっていく様子について解説しましょう。

インド・キャラコ

 17世紀になると、ヨーロッパ諸国は、インドから「キャラコ」と呼ばれる平織り綿布を輸入するようになります。手織りのインド・キャラコは肌触りがよく、較的安価で、ヨーロッパ諸国はこぞって輸入したのです。

 ヨーロッパに輸入されたインド綿は、17世紀末にはかなりの人気商品となりました。インド・キャラコは、異国情緒に溢れた織物であり、かつ安価でした。そして毛織物と違って水洗いが可能で、清潔に保つことが可能でした。こうした要因から、「キャラコ・ブーム」が沸き上がるのです。

 このことに脅威を感じたのがヨーロッパの諸政府でした。中でもイギリスがそうでした。

 というのもイギリスは羊毛を原料とする毛織物産業が伝統的基幹産業でした。安価で人気の高いインド綿の大量流入は、毛織物産業に大打撃を与える可能性があります。そのためイギリスは、インド綿の輸入を禁止したのです。

 まず1700年に捺染ずみの綿布の輸入が禁止されました。さらに1720年には、再輸出用以外のすべての綿布の輸入が禁止されたのです。イギリスは、自国にはキャラコを入れず、他国、特にアメリカや西インドに再輸出することで利益を上げていたのです。

 それでも人々のキャラコに対する需要は強く、毎日のように密輸が繰り返され、摘発者が相次ぎました。

 また、オランダがインドから輸入したキャラコはイギリスにも輸入されていました。インドからの輸入は禁止されていても、ヨーロッパ諸国からの輸入は禁止されていなかったのです。

 こういう状態ですから、インドからの輸入を禁止するよりも、国内で綿織物を生産したほうが労働者を雇用できるし、国家も儲かる。イギリス政府もイギリス人も、そう考えたのです。

 この欲求がイギリスで産業革命がおこる原動力となったのです。

マンチェスターの綿工業

 18世紀後半になると、イギリスは、アメリカ島南部のカリブ海諸島で、西アフリカから連れてきた黒人奴隷を使用し、大規模な綿花プランテーション経営に乗り出します。そこで生産した原綿をイギリス本国に送り、綿織物にするサイクルを生み出すのです。

 当時、ヨーロッパとアメリカ大陸とを結ぶ大西洋経済の開発で、イギリスは新参者でした。スペイン、ポルトガル、オランダに先を越され、フランスとほぼ同時期に大西洋貿易に参入したのです。

 大西洋経済で主要な商品は、イギリスを含めて砂糖でした。その生産量は、ポルトガル領ブラジルが一番多かったのです。西アフリカから黒人奴隷を新世界に輸送し、プランテーション農場でサトウキビを栽培させ、砂糖にすることが大西洋貿易の主要なスタイルでした。プレンテーションで綿花を栽培するイギリスのスタイルは例外的なものでした。