そして、異なる集団に所属する人も「違うねえ! 面白いねえ!」と面白がるので、心を開いてくれる。やがて集団が融合し、緩やかな「私たち」になる。違いを面白がることで形成される「私たち」は、「“私たち”増殖型私たち」ということができる。しかも、違うことこそ大事と考えるので、「私たち」の中で同調が起きない。

「違いを面白がる」文化へ

 では、違いを面白がる、個性あふれる集団が、「私たち」として一定の結束が可能になるのはなぜか。「ミッション」があるからだ。何か面白い新製品を作りたい、新サービスを提供したい、そうした共通のミッションを達成するには、異なる力を結集することが大切だ。

 野球でみんながピッチャーをやりたがったら、試合にならない。サッカーでみんながボールに集まったら、いわゆる「だんごサッカー」になって、初心者レベルの試合になる。攻めるもの、守るものに分かれ、人のいないところに立つから、サッカーではパスをつないでいける。ボールのところにみんな集まったら、パスをつなぐことはできない。人と違うところにいるから、サッカーチームは強くなれるのだ。

 同調を強いるのでも、「敬して遠ざける」のでもない。違いを面白がり、違うもの同士が組んだらどんな新しいことができるかを、ワクワクして一緒に考える。それが、緩やかに「私たち」を形成し、しかも共通の課題を解決していくパワーとなっていくのではないだろうか。

 もし強い集団に育てたいなら、「違いを面白がる」文化を、集団に根付かせてみてはどうだろう。違いから学びあい、新しいことを次々に創造し、共に何事かを成し遂げることを重ねることで、「私たち」の歴史を紡ぐことができるだろう。

 そうした「包摂型私たち」がさまざまな場面で生まれると、活力ある社会が生まれるような気がしている。筆者の仮説が正しいかどうかは、皆さんの手で検証していただきたい。