少なくとも、うまくいかない事例は、「同調」か「尊重」のどちらかを取ってしまっている。前者は「あいつら」と呼ばわりながら強く反発し、決定的な溝ができてしまい、後者は「あいつら」が「あの人たち」と、少し丁寧になるが、相互不干渉という、静かな断絶があるという意味では、やはり「私たち」と「あいつら(あの人たち)」に分断しているという点で、似たようなものだといえるだろう。

「同調」も「尊重」も、相手から学ぼうとしていないという意味では、結果として似てしまう。自分のやり方、考え方を改めようという発想がない。それが結局、「私たち」と「あいつら」の分断を生んでしまうのだろう。

ひらかれた「私たち」

 筆者は、自分と違う人たちを「あいつら」といって排除してしまう考え方、接し方を、「排除型私たち」と呼んでいる。排除される敵を設定すると、「私たち」の結束は固まるが、「排除型私たち」の欠点として、異なる要素を学ぶ努力が失われ、「私たち」の中で「集団堕落」が発生しやすくなる。

 なにせ「排除的私たち」は、同調圧力に屈しさえすれば、多少のことは不問に付される。怠けても何しても、「あいつら」よりはマシ、という評価がなされる。だから、集団堕落が発生しやすい。

 また、別の問題もある。「排除型私たち」は、「あいつら」との抗争が激しさを増すと、「異端者探し」が起きやすい。「お前は「あいつら」のスパイか? 手先なのか?」と、異端でないかを常に問い、純粋な「私たち」であることを求める。

 こうした「純化」運動が始まると、浅間山荘事件のように、「私たち」の中から異端者を見出しては、排除する。排除を恐れるメンバーは、ますます忠誠という名の同調をするようになる。こうなると、集団としての柔軟性を失い、やがて自壊してしまう。「排除型私たち」は、「“あいつら”製造型私たち」と言い換えてもよいだろう。

 他方、「違いを面白がる」ことで形成される「私たち」は、興味深いことに、「違う人間が同じはずがない、違って当たり前、違うことが面白い」と、違いを積極的に評価し、違いから学ぼうとする。こうして「違いを面白がる」集団は、違うことを積極的に評価するから、一種の遠心力が集団の中で維持される。同じになろうとしないのだ。同調しようとしない。違いを維持したままの集団となる。