筆者の勤務する盛岡市の書店、さわや書店フェザン店でのPOP

『スクールセクハラ』という本をご存じだろうか。教師が絶対的な権力を持つ学校で起きる性犯罪「スクールセクハラ」の実態を浮き彫りにした執念のドキュメントである。この本を著者がなぜ書こうとし、編集者がなぜ作ろうとし、書店員がなぜ売ろうとしたのか。その三者の思いをお伝えする。まずはさわや書店の書店員松本大介さん。彼が始めた意外な取り組みとは・・・。(JBpress)

 印象的な装丁の本だな・・・。

 2014年に『スクールセクハラ なぜ教師のわいせつ犯罪は繰り返されるのか』(池谷 孝司著、幻冬舎)が出版され、品出しをしていて手にとった時の気持ちを、いまでも覚えている。表紙には腰ほどの高さの柵に手をかけた、女子学生と思しき後姿の写真。彼女の視線の先には、学校の校舎のような建物がある。その後姿からはただならぬ雰囲気が察せられる。どこか危うさを感じさせる彼女。仮にこの「現場」にいても、僕は声をかけることはないだろうなと考え、気にはしながらも「関わらないでおこう」と本書を置いた。

 だがそれから4年のときが経ち、ある縁によって本書を読み終えたいま、表紙の印象から勝手に内容を推測し、読むことをしなかった当時の自分を蹴とばしてやりたい。いまなら分かる。校舎へと視線を漂わせる彼女の瞳に、厳密な意味でそれは映ってはいまい。おそらく過去の一点へとその意識は向いているはずだから。

 冒頭に「品出し」と書いたことからも察せられと思うが、僕は本屋に勤めている。年間8万点に及ぶ新刊が出版される業界の、読者に一番近い立場に身を置きながら、毎日200点ほどの新刊を店頭に並べて20年近く経つ。そんな日々で、確信を持って言えることが一つだけある。それは「人と本とは出会うべくして出会う」ということだ。

『スクールセクハラ』が、2017年に「文庫化」したタイミングでも、僕が本書を手にすることはなかった。後姿の彼女の愁いは、その間にきっと深くなったことだろう。いや、愁いなどという言葉では軽すぎる。望んでもいないのにもたらされた、彼女の忌むべき過去の記憶は「絶望」そのものだ。想像すらしなかった最悪な事実を、本書を読むことで知った。

 僕が二度逸してしまった、本書に出合うタイミング。それを取り持ってくれたのは、著者である池谷孝司さんご自身だった。当店の存在を何らかのきっかけで知った池谷さんが、『スクールセクハラ』の文庫本を送ってくださったのだった。

 ああ、あの本だ。