今や筋子を圧倒、「イクラ」はロシアからやって来た

「鮭の卵」への眼差し(前篇)

2018.09.14(Fri) 漆原 次郎
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ロシアから入ってきた「イクラ」と「イクラ加工」

 こうした記録をたどると、鮭漁が営まれている地域によっては、筋子あるいは、今のイクラに相当するものが食べられていたことがうかがえる。

 だが、「イクラ」と呼ばれる食べものが日本で確立したのは、明治期に入ってからのこと。やはり「イクラ」語源の地であるロシアから影響を受けたようだ。日本にロシアのイクラが入ってきた経緯としては、2つの説が言われている。

 1つは、1904(明治37)年から翌年にかけて起きた日露戦争が関わったとする説だ。日本軍の捕虜となったロシア人が、キャビアの代用品としてイクラを作り、これが日本に広まったという。

 もう1つの説は、サケ・マス漁が関わったとする説。1907年(明治40)年以降、カムチャツカ沿岸でのサケ・マス漁の発展で、ロシア人から伝えられたとされる。この1907年は、日本とロシアの間で「日露漁業協約」が締結された年。日本によるロシア領沿岸での漁業が始まり、日本人とロシア人の間で食を巡る情報のやりとりもあったのだろう。

 明治期以降は、食の加工技術も近代化していった。大正期には、イクラの樽詰めが始まったとされる。漁師たちが鮭漁の産物として食べていた鮭の卵は、ロシアからの伝来によりあらためて「イクラ」と呼ばれるようになり、産業の対象へとなっていったのだろう。昭和初期には、日魯漁業(現マルハニチロホールディングス)がカムチャツカの工場でイクラを作り、樽詰めにして函館へ運び、函館で「缶入り」が行われた。

戦後もしばらくイクラの認知度は高くなかった

 こうして辿っていくと、「イクラ」は着実に日本の食文化の中に取り入れられていったように思える。だが一方で、戦後ずいぶんと時を経ても、イクラは現在のように普通に食べられる食材ではなかったという証言もある。

 1950(昭和25)年に発行された日本食糧新聞社出版部の業界誌『食品加工』12月号に、興味深い記事がある。北海道水産部の木村三千春という人物が、正月向けの食品を紹介する「新巻鮭・数の子・筋子」という記事を書いている。「筋子」という小見出しの項目内で、筋子の価値や保存の注意などを述べたついでに「いくら」に触れ、こう記しているのだ。

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1975年生まれ。神奈川県出身。出版社で8年にわたり理工書の編集をしたあと、フリーランス記者に。科学誌や経済誌などに、医学・医療分野を含む科学技術関連の記事を寄稿。日本科学技術ジャーナリスト会議理事。著書に『日産 驚異の会議』(東洋経済新報社)、『原発と次世代エネルギーの未来がわかる本』(洋泉社)、『模倣品対策の新時代』(発明協会)など。


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