プラトンは『国家』という本を書いている。かいつまんで説明すれば、自分の師であるソクラテスのようなすばらしい哲学者が国家のリーダーになれば、すばらしい国家になるということをプラトンは言いたかったようだ。このことは高校の教科書にも書いてあるから、知っている人は知っているだろう。

 少し余談になるが、『国家』が画期的だったと思われるのは、「国家は人間がデザインしうるもの」という発想を世に伝えたことだ。普通の人間は、国家という巨大な存在は、自分が生まれる前からあるもので、自分ひとりではどうこうしようもない、と考える。

 しかしプラトンは、少なくとも著作の中で、自分なりの国家をデザインして見せた。これはとてつもない着想だ。後にルソーが民主主義の構想を示したり、マルクスが社会主義を構想したりできたのも、プラトンが「俺の考える理想の国家はこうだ!」という大胆不敵な提案をやらかしたことにある。プラトンがやってみせなければ、国家を人間の手でデザインするなんていうことを後世の人が発想できたか、疑わしい。

 さて、プラトンは『国家』の中で、伝説の人物、リュクールゴスを紹介する。リュクールゴスは、プラトンの暮らしたアテネのライバル都市、スパルタの国家像をゼロからデザインしたといわれる人物だ。スパルタは非常に変わった伝統・慣習を持っていたが、それらは質実剛健な人間を育てるために巧みに設計されたもので、それらはすべてリュクールゴスがデザインした、という伝説がある。

 プラトンはこの伝説に着想を得て、哲学者が支配する国家は、理想の国家になるに違いない、と主張した。

 しかしこの提案は、少し違った解釈をするだけで、とても大きな副作用をもたらす。独裁者が自分を正当化する理論として、プラトンの『国家』を引き合いにしてしまうことが起き得るのだ。

 独裁者は、人の上に立つことに成功しているのだから、何かしら能力があるのは間違いない。だから独裁者は、他の人々よりも抜きん出て優れている、と自分を正当化したくなる。そんなとき、プラトンのような大哲学者が「哲学者のような優れた人物が国家を治めるべき」なんて構想を述べてくれているのは、実にありがたい。「優れた」人間がトップとして君臨することを正当化してくれた気分になって、嬉しくなる。カリスマ経営者も同じ気分に陥りやすいのは、言うまでもない。