大学教育は無意味だが研究は重要だ

 日本の大学行政は一流大学を基準にして、世界の超一流大学に追いつくことを目標にしてきたが、これは錯覚である。文部科学省の知らない三流大学では「研究」している教師はごくわずかで、文系では紀要論文ぐらいしか書いたことのない人が多い。こういう無能な教師が淘汰されないから、日本の大学教師の平均生産性が低くなるのだ。

 世界全体では超エリート教育も必要だが、大学進学率が50%を超えた日本で必要なのは、エリート教育ではない。最近は分数もできない大学生が増えている。彼らに必要なのは、アカデミックな学問ではなく職業教育である。

 国立大学でも、その役割は入試でほとんど終わっている。4年間の勉強で身につけた専門知識が役に立つことは、文系では皆無といっていいだろう。それでも大学進学率が上がっているのは、学歴を得ることによるシグナリングの利益が大きいからだ。大卒の生涯賃金は平均2億5000万円で、高卒より5000万円ぐらい高い。学費に対する私的収益率は10倍以上だが、大学教育は社会的には浪費である。

 こういうと「学問は役に立つものではない」という反論が来る。確かに哲学や天文学も学問として必要だが、若者を1カ所に集めて無理やり教える必要はない。教科書的な学習はインターネットでできるし、少人数のセミナーはカルチャーセンターのような生涯学習のほうがよい。

 学問の価値は、役に立つかどうかでは決まらない。それを公的に支援する仕組みは必要だが、もっと効率的にできる。国立大学の運営交付金は約1兆1000億円、私学助成は約3000億円だが、このうち私学助成は学生の人数で機械的に割り当てられている。これを研究成果に応じた競争的資金に配分すれば、大学にも競争原理が働くだろう。

 日本が知識産業で生き残っていくためには知識への投資が大事だが、それには「教育無償化」のようなバラマキは有害無益だ。大学は(私的収益率の高い)職業教育に徹し、公的投資は研究に集中する制度改革が必要である。