日本では、テニュアに相当する任期なしの教員は、専任教員約17万人の73%(文科省まとめ)。しかもハーバードの場合はテニュア取得には業績審査があるが、日本で昔入った教授は何も論文を書かなくても自動的にテニュアを取り、若い研究者だけが業績競争にさらされる。

 その代わり「特任教授」などの兼任教員が増え、専任教員とほぼ同数になった。学生からみると、5年も無給で徒弟修行したあげく、身分保証のある職につける確率の低い研究者のコースを選ぶリスクは非常に高い。博士課程に進学する学生はここ10年、減り続けている。

日本的雇用が大学を劣化させた

 日本の労働生産性が低いとよくいわれるが、製造業の生産性は主要国の上位である。大学教師の生産性の低さは、サービス業の労働者に似ている。その原因も同じだ。競争がないからである。サービス業には国際競争がないが、大学の教師には国内の競争もない。

 日本のサラリーマンに競争がないというのは神話で、頻繁な転勤や出世競争は強烈なインセンティブになっている。終身雇用がよくないというが、工場労働者のようなチーム生産の利益が大きい労働では、雇用保証で企業特殊的スキルを身につけることに意味がある。

 しかし学問研究にはそういう特殊なスキルがないので、チームを維持するために雇用保証する意味がない。おまけに大学には転勤も出世もないので、競争原理がまったく働かない。大学は日本の雇用慣行の悪い部分(年功序列)をアメリカの悪い部分(不安定雇用)に継ぎ足した最悪の労働市場であり、雇用に手をつけない大学改革は失敗する。

 個人の能力がすべてになるグローバルな市場では、雇用は超流動的になるので、個人をブランド化することが重要だ。それがハーバードをはじめとする世界の超一流大学のビジネスモデルである。

 それはアメリカでもきわめて例外的であり、文科省のようにそれをモデルにして大学の制度設計をすると、ごく一部の学生にしか役に立たない。今の大学の専門的で退屈な授業を最後まで聞く学生は、ほとんどいないだろう。教師にとっても、授業は生活のための義務である。

 現在の大学は職業教育の機能をほとんど果たしていないが、労働者を格付けするシグナリングの装置としての役割は大きくなっている。一部の超一流大学に世界中から秀才が集まる傾向が強まり、それを卒業することが超エリートの条件になったからだ。

 それを日本の大学がまねることはできない。東大卒もしょせん日本ローカルのエリートであり、世界の中では大した学歴ではない。労働者の能力をシグナルする意味があるのは有名私立大学ぐらいまでで、私立大学の過半数を占める定員割れの大学はシグナリング装置として意味がない。