米国としては、B-29は日本を倒すために必要であったし、戦争が終わったらソ連とどのような関係になるか薄々わかっていた人もいただろう。断られて無理もない。

B-29が日本から飛んできた

 戦争が終わる前からB-29が欲しかったソ連。米国はB-29をくれない。B-29は当時の超ハイテク兵器である。米国すら開発に苦労し、故障の多さに手を焼いていた。

 当然、日本には全く手の出ない域の航空機であった。日本よりも航空技術で先を行っていたドイツや英国でも、同等の航空機は開発できなかった。

 当時のソ連もB-29と同じ能力を持った爆撃機を開発するのは無理なのは明らかだった。

 しかし、ソ連は運よくB-29を手に入れてしまう。B-29が向こうから飛んできてくれたのだ。

 1944年7月31日中国四川省成都に作られた米国空軍の基地から、満州の昭和製鋼所爆撃のためB-29が出撃した。昭和製鋼所は日本が満州国の工業化のために作った製鉄所である。

 その内、1機のプロペラ可変ピッチ機構が故障して、長距離飛行が困難な状況になった。パイロットは基地に戻れない場合、ソ連に不時着するよう指導されていたという。

 満州からは、成都よりもソ連の方がはるかに近かったため、ソ連への不時着を選んだ。ソ連はB-29を手に入れた。

 その後、1944年11月11日に、B-29が長崎県大村にあった海軍の航空機工場を空爆に向かった。その日は台風で爆撃はうまくいかなかったようだ。

 この台風は大村の航空機工場にとって神風だっただろうが、ソ連にとっても神風だった。

 台風に突入してしまった1機のB-29は、暴風で痛めつけられてボロボロになったうえ、北の方に流された。この機体もソ連への不時着を選び、ソ連は2機目のB-29を手に入れた。

 11月21日にはもう1機がソ連に不時着した。ソ連に向かったB-29には墜落して、木っ端微塵になった機体もあった。