【AFP記者コラム】ベルリンの壁崩壊、その時記者たちは

独ベルリン(Berlin)のポツダム広場(Potsdamer Platz)付近で、東西ベルリンの間に新たな検問所を設置するため、ベルリンの壁(Berlin Wall)の一部を取り除く東ドイツの国境警備隊員と、その様子を見守る西ベルリンの市民たち(1989年11月11日撮影)。(c)AFP/GERARD MALIE〔AFPBB News

 「ベルリンの壁」が崩壊して以降の時間の方が、ついに、存続した期間よりも長くなった」との報道がありました。

 私たち、昭和中期に生まれ冷戦期に育った者には、実に感慨無量です。今年の8月13日は月曜日でしたが、1961年8月13日は日曜日でした。

 休日の13日、真夜中の午前1時に指令が出、東西ベルリンを隔てるすべての道路に、角材と有刺鉄線を用いた封鎖線を敷くべく、大量の「東ドイツ労働者階級戦闘団」兵士が物資と共に投入されます。

 この当時。ベルリンは連合国4か国に分割占領されていました。

北部:テーゲルなどのエリアと思います・・・はフランス占領下
西側中心部:シャルロッテンブルクなどのエリア・・・は英国占領下
南部、スティーグリッツなどのエリアは・・・米国占領下

 これに対して

 ブランデンブルク門、フリードリヒ大通りから東、ウンターデンリンデン、アレクサンダー広場など東側全体はソ連占領下に置かれた形になりました。

 これを東京や大阪に例えていうと、環状線の電車が走っており、そのど真ん中の道で町を東西に分け、さらに西側を北、中、南と3分割したと考えると、だいたい合うように思います。

現在も一部保存される「ベルリンの壁」

 例えば東京で考えれば、山手線を真ん中で綺麗に2つに割るのは難しいですが、外苑東通りとか内堀通り、北は本郷通りから中山道、南は銀座通りから東海道、みたいな感じでルートを結んで、縦に真っ二つにした状況を考えてみてください。

 東京は旧江戸城=「皇居」というものが存在して、ベルリンの分割とやや状況が異なっていますが、大きく言って、銀座とか東京大学とか浅草とかが「東側」(シュタット・ミッテ、フンボルト大学、アレクサンダー広場などを念頭に)に置かれ、ソ連軍が占領している状態です。