フェニキア人は、古代ヨーロッパ世界で最高の航海術を誇っていました。

 古代ギリシアの歴史家ヘロドトスによれば、エジプト王のネコ2世(前606〜前583年)の命を受けたフェニキア人が、紅海から西回りで、3年かけてアフリカを周回とされています。

 また前450年頃、カルタゴのハンノという航海者は、アフリカ西岸まで航海したという記録が残されているのです。

 つまり他のヨーロッパ人が15世紀の大航海時代に成し遂げたことを、フェニキア人はすでに前6世紀に遂行していたのです。

ティルスの役割

 フェニキア人が築いた植民市は次第に都市国家へと成長していきます。中でも有名なのが、シドンとティルスです。ここでは、そのうちティルスについてお話ししましょう。

 ティルスは、やはり現在のレバノンの地中海沿いに位置する都市でした。ティルスでは、銀・金・錫・鉛・奴隷・青銅商品馬・軍馬・ラバ・象牙・小麦・きび・蜜・油・ぶどう酒・羊毛・布地・羊・山羊・香料・宝石・黄金などの商品が取り引きされていました。これらの商品は、ティルスに輸入され、そして再輸出されたのです。ティルスは、東地中海最大の交易拠点でした。

 この時期、ティルスのフェニキア人はアケメネス朝ペルシアと結び、その保護を受けながら勢力を伸ばしました。多くの商品が、ティルスを経由して、フェニキア人の船で行き来したのです。

 ティルスは地中海沿岸にいくつもの植民市を築いていきます。その中で最も重要なのが、現在のチュニジア共和国にあったカルタゴです。カルタゴは前820年頃ないし前814年頃に建国されたといわれますが、前6世紀には西地中海における交易の中心地へと成長しました。

カルタゴの隆盛

 カルタゴが建設されたのは、現在のチュニジアの首都・チュニスに近い場所でした。地中海に面したこの地は、他のフェニキア人の植民市と同様、水深が比較的浅く、簡単に錨を下ろすことができるので、船を港で停泊させるのが容易でした。

 地中海のほぼ中央に位置するカルタゴは、シチリア島にも近く、北アフリカからイタリアに至る地中海の南北路を押さえることができるという利点がありました。カルタゴは地中海の交易ネットワークのちょうど中心に位置していたので、母市・ティルスがアレクサンドロス大王の侵攻によって衰退してからは、地中海交易の中心地となり、大いに隆盛を極めました。

 当時カルタゴは、シチリア島の西半分を支配していました。そのことにより、イタリア半島を統一して西地中海の新興勢力として台頭してきたローマと、西地中海の覇権をめぐって直接対決することになってしまいます。これがポエニ戦争(前264〜前146年)です。これは、帝国主義的に領土を拡大していた2国間の避けられない争いでした。

【地図2】 カルタゴ・ギリシア・ローマの領土 ©アクアスピリット
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 第1次ポエニ戦争で、カルタゴを破ったローマは、初めてイタリア半島外の領土となるシチリアを獲得します(前241年)。

 一方、シチリアを失ったカルタゴは、多額の賠償金の支払い義務まで負わされます。苦難はそれだけではありませんでした。カルタゴが支配していたサルデーニャ島の守備を担っていた傭兵部隊が反乱を起こしたのを機に、ローマによってサルデーニャ島、さらにはコルシカ島までまんまと奪われてしまったのです。カルタゴは海上交易の拠点を失ってしまいました。国家の死活問題でした。

 カルタゴはローマに対する憎悪の念を強く持つようになりました。そうした中、1つの大きな動きがありました。第1次ポエニ戦争に参加した将軍・ハミルカル・バルカが、遠征軍を率いてイベリア半島へ進出します。イベリア半島の鉱物資源はカルタゴにとって重要な交易品でした。そこまでローマに奪われたくないという思いもあったのかも知れません。

 その後、フェニキア人はイベリア半島で急激に勢力を伸ばしていきます。カルタヘナ(カルタゴ・ノヴァ)、アルメリア、バレンシア、バルセロナといった都市は、カルタゴのフェニキア人が築いたものなのです。

 カルタゴとローマの争いは続きました。前218年には、第2次ポエニ戦争が始まります。

 カルタゴ軍を率いたのは、イベリア半島に進出したハミルカル・バルカの息・ハンニバルでした。幼いころ、父に連れられて行った神殿で「打倒ローマ」を誓ったという逸話が残っていますが、その誓いを実行に移したわけです。

 現代においても戦術家として非常に名高いハンニバルは、ローマに奇襲を加えます。カルタゴ・ノヴァを出発したハンニバルの軍勢は、ピレネー山脈を越え、ローヌ川を渡り、そしてアルプス山脈を越えてローマに向かったのです。よく知られた「ハンニバルのアルプス越え」です。アルプス越えでは雪崩に襲われるなど、決死の行軍となります。その際、象37頭も引き連れていったそうですから、前代未聞、空前絶後の大作戦でした。

 およそ5万人の軍勢だったカルタゴ軍は、5か月かけてイタリア半島に辿り着いた時には半減していたと言いますから、その過酷さが偲ばれます。

 この第2次ポエニ戦争の最大の決戦は前216年のことでした。これまた歴史に名高いカンネーの戦い(カンナエの戦い)です。ガリア人らの援軍を併せて5万人のカルタゴ軍は、8万人ほどのローマ軍と対峙します。

 多勢に無勢でしたが、将軍・ハンニバルによって鼓舞された兵士は勇敢でした。ハンニバルによって敷かれた陣形もローマ軍を大いに翻弄しました。

 終わってみれば8万人のローマ軍は7万人もの死者を出したと言われています。対するカルタゴ軍の死者は5700人。カルタゴ軍の圧勝でした。

 しかしカルタゴは、その勝利をうまく生かすことが出来ませんでした。その後、ローマの将軍スキピオによって形成は逆転。和平を模索し始めた本国・カルタゴはハンニバルに帰還命令を出します。憤慨しつつもカルタゴに帰還したハンニバルでしたが、そこにスキピオ率いるローマ軍が攻め入ってきます。ハンニバル軍とスキピオ軍は、カルタゴの近郊ザマで対決、カルタゴは再び敗北してしまうのでした(前201年)。

 この敗戦でカルタゴは再び大きなダメージを受けました。多数の戦死者や捕虜を出しただけではなく、またもや多額の賠償金を課せられ、軍備の大幅な削減も飲まされたのでした。

 ところがカルタゴは逞しかったのです。