日本の缶詰第一号、イワシは謎に満ちた魚だった

「弱」をつけられた魚の値打ち(前篇)

2018.07.13(Fri) 漆原 次郎
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 イワシの魚臭さや鮮度の落ちやすさは避けがたいところ。だが、そうした欠点があるからこそ、さまざまな料理が生まれる。イワシを煮るとき酢を加える「酢いり」、ワタを取り、塩をまぶし、水で洗ってから熱を加える「潮煮(うしおに)」や「船場煮(せんばに)」、塩をふり、酢に浸し、よく絞ってから削り大根や濃い味噌を和える「鉄砲和(てっぽうあえ)」などの各種料理が、江戸時代、またはそれ以前より編み出されてきた。

日本の缶詰史はイワシから

 明治時代になると、現代を生きる私たちに縁の深い「加工品」が日本で作られた。缶詰だ。日本の缶詰の歴史はイワシで始まったのである。

現代におけるイワシの油漬けの缶詰。イワシの油漬けは「オイルサーディン」とも。

 1869(明治2)年、外国語や海外の学問を学ぶために長崎に置かれた学校「広運館」では、松田雅典(まつだ・まさのり)という人物が司長をつとめていた。松田は、館でフランス人のレオン・デュリーが本国から持ち込んだ牛肉の缶詰を食べるのを見て、驚いた。そして、デュリーから手ほどきを受け、イワシの油漬けの缶詰作りに挑んだ。海外で使われていたオリーブ油が無かったため、菜種油、ごま油などで代用を試行錯誤し、結局、つばき油を使うことにしたという。1871(明治4)年、初めて完成した。イワシ油漬缶詰が、日本初の缶詰となった。

 その後、松田も長崎県庁勧業課に籍を移した。ここで松田は缶詰試験場を造ることを提案し、1879(明治12)年に長崎県立缶詰試験場が開設したのである。3年後に試験場は廃止されたが、松田は官職を辞して、その旧試験場を買い取り、缶詰製造業を営み始めた。

 松田の息子で農学博士の松田秀雄は「父の畢生の事業で最も心血を打込んだもの」が「罐詰」であるとし、その姿を次のように綴っている。

<寝食共に工場に於いてして居りその熱心が如何なものであつたかが窺われる。その日記の如きも殆ど九〇パーセントは罐詰のことで埋まつて居る。(略)父は平常から罐詰の内容の如きも出来るだけ充分に入れる事をやかましく云つていた>

 1894(明治27)年からの日清戦争や、1904(明治37)年からの日露戦争では、兵士の常用食として缶詰が重宝された。それまでの松田の貢献ぶりは大きく、その原点にはイワシの油漬け缶詰の試作があったのである。

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1975年生まれ。神奈川県出身。出版社で8年にわたり理工書の編集をしたあと、フリーランス記者に。科学誌や経済誌などに、医学・医療分野を含む科学技術関連の記事を寄稿。日本科学技術ジャーナリスト会議理事。著書に『日産 驚異の会議』(東洋経済新報社)、『原発と次世代エネルギーの未来がわかる本』(洋泉社)、『模倣品対策の新時代』(発明協会)など。


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