和食で人気の筍、意外と新しかった日本への伝来

美味しいタケノコと悩ましきタケ(前篇)

2018.04.13(Fri) 漆原 次郎
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 乙訓地方を含む京都はタケノコの一大産地となり、得られたタケノコは淀川の水運を使って大坂まで運ばれたという。また、地中のタケノコを探る「サシ」という鉄串や、地中の底からタケノコを掘りだす「ホリ」という鍬も開発された。

 もう1つの説は、琉球(沖縄)を経て、薩摩(鹿児島)に入ってきたというもの。薩摩藩主島津氏の庭園「仙巌園」にある石碑「仙巌別館江南竹記」には、1736(元文元)年3月、島津家第21代当主の浄国公(島津吉貴)が琉球国にこのタケがあるのを聞くと、5月に献上させ、植栽したのが日本へのモウソウチクの渡来の始まりと説明されている。

 日本では、モウソウチクが入る前から、マダケなどのタケノコもわずかに食べられてはいたようだ。だが、その後、モウソウチクが京都あるいは鹿児島にもたらされ、日本のタケノコの圧倒的比率を占めるようになった。京都説と鹿児島説どちらにしても、今の日本人とタケやタケノコの関係を考える上では、大きな出来事だったといえよう。

目黒、荏原、大崎は竹林で覆われていた

 モウソウチクは人の手で全国へ広がっていった。今では信じがたいが、江戸の目黒や荏原あたりでは竹林が広がり、「目黒のタケノコ」と呼ばれるほど有名な産地だったという。

 1929(昭和4)年に出版された『実地目黒式孟宗筍栽培法』(阿部元作著、明文堂刊)には、1789(寛政元)年に山路治郎兵衛氏勝孝という人物が、江戸にモウソウチクを広げたきっかけを記述している。

 山路の本業は回船運送業だが、趣味の園芸にも熱心だった。職業柄、武家への出入りが多く、三田四国町(今の港区芝)にあった島津家の屋敷でモウソウチクの珍しさに触れ、薩摩から数株のモウソウチクの鉢植えを取り寄せ、荏原の自宅近くに植えたという。そして収穫したタケノコを武士たちに売ろうと画策し、ついに嗜好に適すると認められ、神田多町の問屋にタケノコを納め、販路を拡大していったという。山路は「筍翁」という異名を得ることとなった。

 ちなみに、なぜ「荏原のタケノコ」とはならず「目黒のタケノコ」となったか。上記の阿部の言によれば、荏原は家も少なく寂しい土地だったの対し、目黒には不動尊があって賑わっていたため「目黒のタケノコ」が定着したのだという。

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1975年生まれ。神奈川県出身。出版社で8年にわたり理工書の編集をしたあと、フリーランス記者に。科学誌や経済誌などに、医学・医療分野を含む科学技術関連の記事を寄稿。日本科学技術ジャーナリスト会議理事。著書に『日産 驚異の会議』(東洋経済新報社)、『原発と次世代エネルギーの未来がわかる本』(洋泉社)、『模倣品対策の新時代』(発明協会)など。


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