彼女が現状を打破するために踏み出した一歩は、まさしく冒険と呼ぶにふさわしい

「肩書き」とは何だろうか。

 いや、肩書きの意味くらいは理解しているつもりだ。課長から始まって、部長、取締役ときて、最終的には会長まで上りつめた島耕作の前につく、人事的な役職のこと。フリーで活躍する人が、うさん臭く思われないように自ら名乗る、煙に巻くようなカタカナ英語など。それらを総称して肩書きという。それくらいは分かる。

 いま、何だろうかと疑問に思っているのは、本質的な部分における「肩書き」だ。

 肩書きについて考える時、ぱっと頭のなかに思い浮かぶのは「立場が人をつくる」「名は体を表す」といった慣用句。だが、どちらも肩書きの周辺にある言葉であり、肩書きを得てから用いられる語句である。いや、後者にいたっては、この場合における適切な使い方であるとは必ずしも言えない。

 組織の役割における肩書きについて、そんなに真剣にではないけれど考えた結果として言えることは、ビジネスにおいてしばしば周囲の人は肩書きによって「その人」をある程度判断しており、肩書きにその人を当てはめがちなのではないかということである。

 人それぞれ自分のなかに漠然と存在する「課長」という肩書きへの印象であるとか、これまでの経験の蓄積によるイメージとしての「エグゼクティブ・プロデューサー」などの肩書き。それらを、このたびビジネス上でお付き合いすることとなった当人を目の前にして、過去に同様の肩書きをもつ「誰か」と重ね合わせて、自分の内に基準をこさえる。そうしておいてから、実際にやり取りを重ねるなかで相手の能力を測り、自分のなかにある基準値から足し引きするといったことを、無意識におこなってはいないだろうか。

 忘れてはならないのは、向こうも自分を肩書きによって判断して、同じようなことをやっているという事実だ。ふとした瞬間に、外面に表れるそれを相手から嗅ぎ取って、もしくは部下からの「肩書きがあるのだからやって当然」という「逆パワハラ」によって、肩書きに自らを寄せていってしまう。それらに縛られて、肩書き上の立場を無理して演じてしまう。その結果、実際の自分との乖離によってストレスを募らせる。ビジネスにおける肩書きについて考えると、そこら中にあふれている「あるある」ではないだろうか。