英紙ガーディアン、タブロイド判に小型化 経費節減の一環

編集者は神様? 写真はタブロイド判になった英紙ガーディアン(右)と以前の同紙(2018年1月15日撮影)。(c)AFP PHOTO / ADRIAN DENNIS〔AFPBB News

 考えてみると、この10数年ほど、私は毎週毎週かなりな数の原稿締め切りというものに追われています。

 JBpressの連載もコンスタントにやって来る・・・。それが嫌かと問われれば、いえいえ、とんでもない。原稿などというものは、締め切りがなければ決して書けるものではありません。

 実は作曲もそうなんです。いつまでに仕上げねばならない、というのがあるからできる。このところ私はフランス語の本の翻訳が遅れ遅れになっていいます。

 1につはもともとあまりフランス語が得意でなく、初等文法から見直したりして時間を取られること、もう1つは、締め切りを寛容に待っていただいてしまい、そのためにかえって何か月も遅れてしまったりする。不思議なものです。

 締め切りがあり、それまでに何とかするという感覚。あえて言うなら「締め切り感覚」とでも言いましょうか。

 相当な批判を受けるのを覚悟のうえで、私はこうした感覚と、ユダヤ・キリスト教、さらにはイスラム教徒の信仰、とりわけその核心にある「契約」の感覚が通じているのではないかと思うのです。

 もっと正確に言うなら、これは私自身の信念で、そのマニフェストに過ぎませんから、誰が何を言おうと勝手にしてくれ、という話でもあるのですが(苦笑)。

 でも、外人の宣教師に「アーナタハー カーミヲー シンジマースカ~?」と問われて「信じるわけねーだろ」と答えるような人にも、ユダヤ・キリスト教系の「ある感覚」を共有してもらえるのではないかと思うのです。

 前回はこれを逆から考えました。つまり、締め切りがない。誰からも、何の希望の期待もなく、自分自身も力を振るう方途を失ったとき、人は急速に希望を失い、前欝に近い状態に落ち込むことがある。

 予後を誤ると、そこから欝を発症して、さらに取り返しのつかないことになったりもし得る。同じ問題をマイナスの方向から考えてみましょう。