――どんなものなのでしょうか。

石井 大都市の商業会議所会頭など、経済界で活躍する民間人50名を率いて、3カ月にわたりアメリカのさまざまな機関を訪問しました。渋沢は69歳という年齢で団長を務め、多くの企業や施設を見学しました。そして、当時の大統領であるウィリアム・タフトのほかトーマス・エジソン、ジェームズ・ヒルなどとも面会しています。

――アメリカの企業や要人を巡り、日本の実業家たちが学ぶ機会を作ったということですよね。

石井 もちろん、それもあります。ですが、当時の渋沢にとって、対アメリカの活動には別の大きな意味もありました。

 明治期の後半から、日本とアメリカの関係は徐々に悪化していきます。1900年代の初頭から、アメリカでは日系移民の排斥運動が行われ始めたのです。渋沢は、アメリカとの関係改善を強く望みました。もちろん渡米実業団には、海外産業などを吸収する面もあったでしょうが、同時に民間外交の側面があったのです。

 渋沢自身、初めてアメリカに行ったのが1902年で、その後に渡米実業団が生まれました。排斥運動の高まる時期とほぼ一致します。

 さらに渋沢は、1916年(大正5)年に日米関係の改善を目的とした日米関係委員会を結成します。古稀を超え、高齢となってからの話ですから、渋沢の情熱が分かります。

 また、1921(大正10)年11月から始まったワシントン会議においても、渋沢が「日本の非公式代表」だったと表現されることがあるほどです。いろいろな条約が結ばれる中で、裏方として尽力していたようです。彼は度々アメリカに対して、このような民間外交をしていたのです。

――なぜここまで関係改善にこだわったのでしょうか。