そろそろ見ごろ? 湯島天満宮の梅まつり

都内の湯島天満宮(湯島天神)で、梅の木の下に集まって琵琶の演奏を聴く人々(2017年2月18日撮影)。(c)AFP/KAZUHIRO NOGI〔AFPBB News

 お正月と言えば、おせち料理、おとそ、初詣、鏡開きなど、日本の様々な習俗が想起され、その一つひとつに「常識の源流探訪」ネタが山のように詰まっています。

 今年はその中から「おみくじ」を取り上げて、考えてみたいと思います。そもそも、なぜ、おみくじと言うのでしょう?

 「御神籤」と漢字で書く場合がありますが「御」を取っても「神籤」は「みくじ」とは読みません。「御御籤」とか「お御籤」と書く場合があるのと同様、これは典型的な二重尊称と言うべきでしょう。

 数年前のお正月に、神社の屋根に乗っている「かつお木」「ち木」の話題に触れたことがありました。あの折「お宮」という言葉で同様のことを記したかと思います(「正月は神社の屋根に注目しよう 千木・鰹木の由来とは」)。

 「おみや」と言いますが「宮」は音読みすれば「キュウ」とか「グウ」で、これを訓読みで「ミヤ」と読むのは「御籤」を「ミクジ」と読むのと同様、当て字になります。

 実際には「お御家」あるいは「御御屋」かもしれませんが「とてもとても尊いおうち」として神の居ます所を「ミヤ」というようになったものでしょう。

 これはそのまま皇族や親王家にも適用され「三笠宮家」とか「高円宮家」といった単語、あるいは「浩宮」「紀宮」といった呼称にもつながっている。天皇の自尊表現の二重敬語と符号しているのも面白いところです。

 ちなみに二重敬語というのは「その年の夏、みやすんどころ、はかなき心地に煩ひて、まかンでなむとし給ふを、暇さらに許させ給はず (源氏物語「桐壺」)」などというときの「せ+給ふ」と敬語表現が2つあることです。

 畏れ多い主語を明示することなく、動作主が帝であること知らせるという、日本語独自の用語法で、主語や動詞すらしばしば不在という、極めて特異な言語である日本語の特徴を示す、非常に興味深いシンタックスと思います

 「おみや」とか「おみくじ」などという見慣れた表現の中にも、実はそこには「疑ってはならない神意」という、微妙な共同体タブーが潜んでいる。

 右傾化した議論をする人に、こうした日本語の機微を細かく検討する人がもう少し増えると、ずいぶんセンシティブになるようにも思うのですが・・・(苦笑)。

 さて、その「神意」を問う「おみくじ」に頼る日本のメンタリティを少し考えてみます。