父に愛され、容姿端麗で才気に富み、音楽の演奏にも秀で、諸大名から嘱望の声も高かった弟、義嗣を殺した4代将軍義持は、息子の義量(1407-25)を名ばかりの将軍につけます(1423)。

 しかし、ほかに元服まで生き延びた子がいなかった義持期待の少年将軍は数え年19歳で早世、結局その3年後、跡継ぎを決めないまま1428年1月18日、数え年43歳で亡くなってしまいます。

 こういうとき「オミクジ」が登場するわけです。

 不合理としか言いようがない状態。そこで「神意」によって、誰も反対できない形で将軍の跡継ぎを決めるということになった。こんな選び方をした将軍がどういう最期を遂げたかと併せて、簡単に見てみます。

 義持将軍の亡くなった翌日、政治日程に空白を作らぬため、義満将軍の遺児たちを候補者に「おみくじ」が引かれ、出家して天台座主となっていた大僧正「義円」(1394-1441)が当たりとなり、将軍に押し立てられます。

 義円の前半生は「歴代天台座主随一の逸材」と言われるほど周囲の嘱望が高く、それで当たり籤に仕込まれたというのが実のところだったのでしょう。

 すでに35歳になっていた十分大人の義円は幾度も辞退します。そもそも子供の頃に出家して元服すらしていなかった義円でしたが、結局、将軍職に就き6代将軍義教となります。

 この義教は、勝手知ったる比叡山と中身を知るからこそ深く対立し、延暦寺根本中堂が抗議の焼身自殺で焼け落ちたり、切れ者ゆえに有力大名家の家督に介入して対立を深めたり、結果的に室町幕府を傾ける最悪の事態を生み出してしまいます。

 これは日本史でも広く知られるところでしょう。能楽をこよなく愛した義教将軍でしたが、能楽観世流「観世音」の3代「観阿弥」「世阿弥」(が名高いですね)の中で「音阿弥」を溺愛、父義満に愛された世阿弥を弾圧して佐渡に流すなどもよく知られた事実と思います。

 最期は、その音阿弥の能でおびき出された赤松氏の屋敷で殺害されるという(嘉吉の変)戦国時代のとば口を切るような死に方をしています。足利義教の市政すべてを「おみくじでの選出」に帰するつもりは毛頭ありません。

 しかし、かつては「天台座主史上最高の逸材」だった青年が「悪御所」とあだ名され、その名に違わぬ大量殺戮などを繰り返し、最期は室町将軍初の非業の死を遂げるに至るきっかけは「おみくじ」による人生の歯車の狂いだったのは間違いないでしょう。