渋沢栄一が大倉喜八郎らとともに手がけた帝国ホテル。(写真:国立国会図書館

「日本資本主義の父」といわれ、明治から大正にかけて数多くの企業に携わった実業家、渋沢栄一。彼が関わった企業の数は生涯で約500を数えるといわれており、今再びその理念に脚光が当たっている。

前回の記事:「渋沢栄一が明治時代に公益と利益を両立できた理由」

 ただし、約500の企業すべてを渋沢が主体で率いたわけではない。彼は発起人やサポートという形で、実際の経営は信頼する人間に委ねたことが多かったようだ。

「渋沢は多くの事業について、実質的な経営を他の人に任せました。発起や資金集めの部分で彼が尽力し、その後は信頼した人に託したのです。それができたのは、彼が多くの人に信用され、強固なネットワークを持っていたからです」

 こう述べるのは、國學院大學経済学部の石井里枝(いしい・りえ)准教授。渋沢は、いったいどれだけのネットワークを持っていたのだろうか。そして、なぜそのようなネットワークを作ることができたのか。石井氏に話を聞いた。

國學院大學経済学部准教授の石井里枝氏。東京大学経済学部卒業。同大学院経済学研究科博士課程修了。博士(経済学)。三菱経済研究所研究員、愛知大学経営学部准教授を経て現職。著書に『戦前期日本の地方企業‐地域における産業化と近代経営‐』(日本経済評論社)、『日本経済史』(ミネルヴァ書房)などがある。

才能ある人材を見つけ、登用することも得意だった渋沢

――約500の企業において、渋沢は人的ネットワークをうまく活用しながら関わっていったとのことですが、具体的にはどのようなスタンスを取ったのでしょうか。