――非財閥であることが、自由にネットワークを作れる環境そのものだったと。

石井 はい。彼から経営を任された相手にとっても、非財閥を貫いた渋沢のスタンスが良かったのかもしれません。

 財閥もいろいろな会社を設立しますが、あくまで財閥本社があって、その下に子会社があるという形式でした。もちろん、財閥の拡大にしたがって子会社の意思決定の範囲も広がっていきますが、最終的には“上の意向”が重視されたりすることが付き物です。たとえば三井は、本社における社員総会を三井家のみで行いました。専門経営者の経営への関与の度合いが比較的強かったといわれる三菱でも、やはり財閥のトップには岩崎家がいる構造でした。

 対して、渋沢から経営を任された人たちは、もっと自由に采配をふるえたのではないでしょうか。自分の意向で経営戦略を取りつつ、困った時は渋沢のアドバイスや援助をもらえる。常にお伺いを立てたり、渋沢の動向を逐一気にしたりする環境だったら、これだけいろいろな経営者がついてこなかったと思います。

――有望な人材に、本当の意味で「経営を任せた」からこそ、その人材が育ったのかもしれませんね。

石井 一方で、彼自身が長く舵を取った事業もあります。そのひとつが、養育院(現・東京都健康長寿医療センター)の院長です。これは社会事業として行ったものでした。

 渋沢は、約500の企業に関わるとともに、約600の社会事業に携わりました。そして、実業界を退いたあとも、社会事業においては最後まで力を入れ続けます。養育院はその代表でした。こういった社会事業への貢献も、渋沢を語る上で欠かせません。

 彼はどのような社会事業に関わり、どんな理念で実行したのか、次回ご紹介します。