「運が開ける方法」はあるのか?(写真はイメージ)

「運がいい」とか「運が悪い」とかそんな定義づけは所詮、主観以外の何ものでもない。

 超現実主義者である私は、朝の情報番組でこぞって垂れ流される占いを、心底どうでもいいと思っているし、むしろ嫌悪すら感じている。勝手に人の運命を占って、勝手に注意をうながして、お節介にもほどがあると思うのだ。

 その思想のもと、20代の頃に自らの意思とは無関係に訪れる厄年に対し、「そんなもん関係あるかい」と一笑に付すスタンスを取った。

 だって星座占いが本当なのだとしたら、人口の12分の1がその日一日何をやってもうまくいかないとかおかしい。挙句、今日のラッキーパーソンは「宝くじ高額当選者」「雀鬼」「銀行員のラガーマン」などと、ともすれば脅迫に近いような人づきあいを押し付けてきたりする。そんなのナンセンスではないだろうか。何か物事がうまくいかない時、それらに対する自らの責任を放棄し、転嫁して星座占いや運気のせいにする。それはある意味、とても楽だ。

 かたや厄年。厄年によって、自分と性別が同じ同学年の人間すべてが1年もの間、災いにびくびくして過ごす。バトルロワイヤル感がハンパない。厄祓いをしなければ悪いことが・・・という強迫観念のもとに、お祓いに金を払った奴から順に、その精神的負担から逃れられるという理屈は、中学生の頃に経験した「カツアゲ」と同じ論理ではないのか。一度でも払うと、奴らは味をしめて2回、3回と金をせしめようとする。その悪い予感に震えた私は、仮にお祓いをすることが世の理だろうと、「払いませんし、祓いません」という毅然とした対応が必要だと考え、青い反骨心でもって拒否の姿勢を貫いた。

 結果、何が起きたか。