――彼の理念や、それを実現した例はよく分かりました。とはいえ、道徳と経済を両立するのは簡単ではありません。なぜそれができたのでしょうか。

石井 いろいろな理由があると思いますが、どんな事業を立ち上げるか、その出発点における「目の付けどころ」に秘訣があったかと思います。彼が携わった事業の多くは、海外で先んじて始まっていて、現地では普及しているもの、それでいて日本にはまだ無いものが多かったんですね。

 鉄道やインフラはまさにそれですし、彼はキャリア前半期に大阪紡績会社の立ち上げで成功を収めますが、イギリスをはじめ世界の産業革命は紡績分野から始まっており、渋沢はそれを日本に持ち込んだ形でした。また、渋沢は保険業の立ち上げにも尽力しますが、これも海外の先進国には普及していながら、まだ日本になかったものです。

 彼は、日本にはまだ無いけど海外には既にあるもの、そして海外で普及しているものを積極的に取り入れたのではないでしょうか。普及しているということは、人々にとって絶対的に必要なものであり、生活を豊かにします。ということは、ニーズがあるわけで、当然利益にもなり得ます。

――海外の先進国と日本を比較していたからこそ、そういった先見の明があったんですね。

石井 実際、海外の情報は頻繁に取り入れていて、欧米諸国を訪れる中で、情報や最先端のものをキャッチアップしていたようです。また、とにかく人との面談を重視し、短い時間の中でも情報や意見の交換を惜しみませんでした。

 鉄道についても、当時の日本では「危険なもの」という認識も強かったのですが、海外での状況や情報から「安全であり、必要なもの」と確信したのではないでしょうか。実際、彼が関わるインフラ事業などの合理性や可能性を説いていたようですし、実業界引退後には比較的時間をかけて地方都市を視察し、講演なども多く行いました。

 ちなみに、渋沢は農民の出身ですが、一時は一橋家に仕官して、一橋慶喜の幕臣を務めます。そういった中で、彼は武士としての思想、仁義や“人のため”といった考えを強くします。

 一方で、彼は商業の重要性を若いうちに認識し、利益を上げることの大切さを説いていました。士農工商という言葉がありましたが、渋沢は最も身分の高い「士」と、その一方で低く見られていた「商」の2つを、共に大切だと考えていたのです。当時としては非常に先進的です。