――この「道徳経済合一」は、いつ頃提唱されたものなのでしょうか。

石井 言葉として明確になったのは、1910年頃から。渋沢が古稀を迎えて実業界の第一線から退くことになってからです。とはいえ、その年齢になって考えた理念ではなく、彼が大蔵省を辞して、実業家となった33歳の頃から一貫して実現してきたもので、それを後になって言葉にしたといえます。

――彼が数々の企業に関わる中で、特に「道徳経済合一」が色濃く現れているものがあれば教えてください。

石井 彼にとって最初の起業となった「第一国立銀行(現・みずほ銀行)」は、その好例です。

 渋沢が実業家として活躍した時代は、同時に財閥が飛躍的な成長を遂げた時期でした。そしてこの頃、渋沢も財閥も、銀行の設立に力を入れます。それらは、現代にも多数残っていますよね。

 ただ、同じ銀行でも、渋沢と財閥では主旨が大きく異なりました。財閥系の銀行の多くは、「あくまで財閥の中で、内部への資金調達をするための銀行」という位置付けでしたが、渋沢にとって銀行は「世の中に生まれるさまざまな企業の資金調達をするためのもの」という位置付けでした。

 同じ銀行という役割でも、見据えているものは全く違いました。彼は世の中の資金を循環し、産業を興して国を豊かにするために、大元の金融を作ったのでした。

簡単ではない道徳と経済の両立。なぜ彼はできたのか

――実業家としてのスタート時からこの理念を実践していたのですね。

石井 その他でも、彼が関わった事業を見ると、いかに公益と利益の両方を追求していたか分かります。再び財閥との比較になりますが、財閥の多くは重工業に力を注ぎました。もちろん、この分野での財閥の貢献も日本の経済成長には欠かせなかったのですが、渋沢は財閥が手を伸ばさない分野に多く関わりました。

 その象徴が、インフラ事業です。全国の鉄道には彼が若い頃から携わりましたし、その他に東京瓦斯(ガス)などの設立にも寄与しました。国民の生活を左右する部分に数多く貢献したといえます。それは、国民の生活を豊かにするという、公益の追求を考えていたからです。その上で、これらの事業を利益化していったのでした。