「コミュニケーション能力の欠如」は、決して人格の問題と直結しない。理科の授業が多少苦手だからって、リコーダーが吹けないからって、普通その人の人格に問題があるとは考えない。でもなぜか、「コミュニケーション」に関しては、それがうまくできないと人格に問題があるかのような見方をされてしまうことが多い。この点も、まずは教育の現場で変えていかなければならないのではないか、と著者は言うのだ。

 コミュニケーション能力をどう教育するか。その土台となる考え方が、本書を読むと大きく変わることだろう。

その場のルールが分かっていないのは自分だけ?

蚊がいる』(穂村弘著、KADOKAWA)

 世界にうまく馴染めない人、というのはいる。本書の著者である歌人の穂村弘も、そういう人間だ。僕自身もそういうタイプで、だから、世界に対してどうしようもない違和感を抱き、それを様々な形で言語化できる穂村弘の文章を、僕は楽しいと感じる。

 日常の様々な事柄に対して違和感を覚えていても、僕たちはそこで生きていくしかない。狭いコミュニティの中の事柄に対する違和感であれば、コミュニティを外れて別のところに行けばいいが、それが大きな世界に対する違和感であれば、その違和感を呑み込んで生きていくしかない。

<文化祭でもキャンプでも大掃除でも会社の仕事でも、いつも同じことが起きる。全ての「場」の根本にある何かが私には掴めないのだ。現実世界に張り巡らされた蜘蛛の巣のようなルールがみえない。何のための穴なのかよくわからないままに、どこまでも掘ってしまう。だが、わかっていないということは熱心さではカバーできないのだ>
蚊がいる』(KADOKAWA)

 穂村弘は、自分の中に確信がない。確信を得ようと周囲を観察するのが、ルールらしきものが分からない。自分にはルールが分かっていないのに、どうも周りの人は特に説明もされないままルールを把握しているようで、その場に馴染んだ振る舞いをしている。いろいろと考えて、これかな、という行動をしてみる。でも、どうも違う。いや、はっきりとは分からないが、違うような感じがする。そういう雰囲気だ。でもじゃあどうすればいいのだろう?

 穂村弘はそんな風に世界の中で存在していて、それは僕も同じだと感じてしまう。

 世界は1つかもしれないが(複数あっても特に問題はない)、世界の見方はそれこそ山ほど存在する。その視点をたくさん持っていればいるほど、いろんな世界の中で生きることができる、といえるかもしれない。穂村弘は、世界に馴染むのが苦手だが、それ故にいろんな世界を見ることができる。穂村弘は、そんな風にして見た世界を、時に短歌で、時にエッセイで切り取っていく。

 分からないものを理解するために、人は言葉を磨く。その磨いた言葉が、より様々な世界に気づかせることになる。穂村弘には、いろんな世界が見えてしまい、ただでさえ世界に馴染むのが苦手なのに、余計に苦手になっていく。でも、その困惑みたいなものが、見ている方としては楽しい。

 穂村弘というのは、そういう困惑を実に見事にエッセイの中で描き出す。実に面白い。