アフリカPKO要員の性的暴行疑惑、21か国・69件 国連報告書

中央アフリカの首都バンギで巡回警備に当たる国連中央アフリカ多面的統合安定化派遣団(MINUSCA)のモロッコ人隊員(2015年12月24日撮影)〔AFPBB News

 毎週水曜日にお届けしている徹底解説自衛隊(前回はこちら)、これまで自衛隊誕生に始まり、ソ連、中国の進出を阻んできた実力、そして国内での災害援助活動などを詳しく解説してきた。

 第4回となる今回は自衛隊初の海外派遣に至った歴史に迫る。

 国連は1945年の創設以来今日まで、国際の平和の維持および安全の維持増進のため国連憲章の定めるところに従い、強制措置(軍事的および非軍事的)、平和維持活動、人道援助活動、軍備管理・軍縮など、さらには安保理決議に基づく海賊対処活動等、多ような活動を実施している。

 冷戦末期になると米ソの対立色は薄まり、米ソの協調機運が少しずつ出てくるとともに、国際社会が協調して内戦の収拾や復興支援に当たる機運の高まりとともに国連による各種活動が活発化していった。

 ことに冷戦終結後は、国際社会の安全保障環境の不安定化・悪化に伴い国連が行うこれら活動の範囲や役割の拡大、精緻化、頻度の増大等が顕著となった。

 このような環境の中で、自衛隊が海外における活動に関わっていった過程とその実績について概観する。

海外における初の自衛隊の活動

 冷戦終末期に起こった湾岸戦争は、その直後のソ連邦崩壊による冷戦終焉とともにその後の国際社会の安全保障環境の変化とその対応について、特に我が国の対応について転機となった戦争である。

 米ソ両首脳が冷戦終結宣言(1989.12.2)を行った翌年、1990年8月2日にイラク軍が隣国クウェートへ侵攻して始まった湾岸戦争は、安保理による武力行使容認決議(1990.11.29)を受けて米英仏を含む37か国(北米、南米、ヨーロッパ、アジア、オセアニアおよびアフリカ)の軍隊で多国籍軍を構成してイラクに対する攻撃を開始(1991.1.17)した。

 戦争は軍事力において圧倒的な優位を誇る多国籍軍がイラク軍を圧倒し、イラクは国連安保理決議を受諾(1991.4.6)して停戦に合意し、1991年4月11日に同決議は発効して湾岸戦争は終結した。

 一方、我が国にとって湾岸戦争とは何であったか?

 米国は開戦前に同盟国や中近東諸国などに共同行動を呼びかけ、多くの国がこれに賛同した。米国は同盟国としての我が国に対しても資金拠出と共同行動を求めたが、我が国は資金拠出(合計135億ドル―当時の日本円で約1兆8000億円)に応じたのみだった。

 自衛隊の派遣のみならず民間の航空機および船舶による物資や人員の輸送の要請など、人的貢献は一切拒否した。

 我が国は安全保障では同盟に基づく米国に多くを依存しつつ、経済的繁栄を謳歌し、その源泉とも言うべきエネルギー源としての原油を中東からの輸入に多くを依存(注:1990年で約72%であったが徐々に増え2000年代には90%近くまで増加し現在は概ね85%前後で推移している)している。