ハルビンに安重根記念館が開館、日本は抗議

中国北東部・黒竜江省ハルビンで作られた伊藤博文を暗殺した安重根記念館(2014年1月19日撮影)〔AFPBB News

 「教育勅語」を巡る問題を仔細に検討しています。きちんと読んでしっかりしたリアクションをいただくケースもありますが、表層以前のコメントを、匿名のツイッターで目にしたりすることもあり、後者のようなケースはやや残念です。

 「教育勅語を作った時代背景を理解していない人」が私の記事を読んで「教育勅語を作った時代背景を理解していない」という種類の書き込みをしているのを見て、「これはいい」と思いましたので、今回は「教育勅語を作った時代背景」に焦点を当ててみたいと思います。

 また、この種の記述は客観叙述が望ましいと思うのですが、明治期の外交は曽祖父など父祖が直接当事者として関わったケースがあるので、いくつか身近な例も引きながら「内部に緊張をはらんだ明治期外交」という現実を素描しておきたいと思います。

 先に結論部分を書いてしまうなら、明治初期、外事に通じた人材は薩摩・長州閥にむしろ少なく、旧幕臣や親藩譜代、あるいは土佐・肥前などに多かったこと、日本の国内、特に官界や民間にあって、薩長閥族政府の方針に必ずしも同意せず、常に批判的、建設的に対案を検討し、実行していた人々の考えを、紹介できればと思います。

 例えば「坂本龍馬」(1836-67)を考えてみましょう。

 「日本を洗濯いたし申し候」

 など、スケールの大きい国際的な視野を持って、大政奉還などに尽力した坂本は、土佐藩の下級郷士で薩摩でも長州でもありません。

 また、万延元(1860)年、咸臨丸で渡米して米国の現実を知り、大局を見据えて日本国内での内戦を避け、江戸城無血開城に導いた海舟こと勝麟太郎安芳はまぎれもなく徳川幕府側の軍事総裁職にありました。

 明治維新後も旧幕臣の代表格として参議兼海軍卿など、政府の重職を歴任しているのは、現実に海外先進国、もっと露骨に言うなら、当時の帝国主義列強の現実を知る数少ない日本人だったからです。

 こうしたカウンターパワーの力がなければ、戊辰戦争直後には井の中の蛙に過ぎなかった閥族政府に、日本の舵取りは不可能だったでしょう。

薩摩の「攘夷」:生麦事件と薩英戦争

 鳥羽・伏見の戦いなど戊辰戦争を制した維新の「官軍」は、もともと「尊皇攘夷」を唱える集団が核となっていました。これは広く知られる話と思いますが、正しく深く理解されているか、やや疑問に思います。

 「尊王・攘夷」とは

1 「天皇を敬い」
2 「夷狄=外国人を攘鎖=払いのけ追い出す」

 という2本の柱から成り立つ考え方ですが、ここで言う第1の「尊王」は、当時の現実としてまず第1に「反幕府」つまり徳川政権を相対化する上での日本古来の統治と精神的な支柱であって、国際社会の中に大日本帝国として打って出る、といった発想はそもそもないことに注意しておきます。

 なぜと言って、すぐに「攘夷」ですから、分かりやすいですね。