(英エコノミスト誌 2017年3月11日号)

対馬・上島と下島の間の浅茅湾(烏帽子岳展望所から撮影)。 Photo by As6022014, under CC BY 3.0.

共通の歴史、盛んな交易、そして盗まれた仏像をめぐる奇妙な論争

 その昔、日本列島と朝鮮半島のおおむね中間に位置する対馬には、倭寇(わこう)と呼ばれる日本人の卑劣な海賊がおり、無数にある入り江に身を隠しながら何世紀もの間、朝鮮半島の海岸を荒らし回っていた。また、1592年には関白の豊臣秀吉が、この対馬から20万の軍勢を朝鮮半島南岸の釜山に送り、7年に及ぶ侵略を開始した(壬辰倭乱、日本名は文禄・慶長の役)。さらにその数世紀前には、須恵器(すえき)と呼ばれる新しい焼き物が朝鮮半島から対馬を通って日本に伝わっていた。

 今日、釜山から対馬に海を渡ってやって来るのは、大半が観光客だ。釣り人、ハイカー、日帰りで往復する10代の若者たちなどが、1時間ほどフェリーに揺られてくる。だが年に1度だけ、17世紀の外交使節の色鮮やかな衣装をまとった韓国人の一行が対馬の土を踏む。壬辰倭乱の後、朝鮮国王と日本の将軍との友好関係を再確認するために始まった「朝鮮通信使(この通信は「信(よしみ)を通じる」の意)」を再現するためだ。

 朝鮮通信使は漢城(ハンヤン、現在のソウル)から釜山、対馬を経て江戸(現在の東京)まで2000キロを移動した。国書を携え、朝鮮半島で作られたまばゆいばかりの芸術品の数々を運んだ。200年の間に12回派遣され、詩人や画家、軽業師、書家も日本に連れて行った。一行が釜山で船に乗り込むころには、こうした芸術家の数が400人ほどになっていた。日本側からは、1800人がこの一行の行列に加わった。日本の人々は、行列を出迎えるために道沿いに並び、詩文や書画を受け取るべく夜を徹して待ち続けたという。

 今日、日韓両国の政府は、このような心のこもった交流にはほど遠い状況にある。対馬の北東にある公海ではいくつかの岩(韓国側は「独島(ドクト)」、日本側は「竹島」と呼んでいる)の帰属をめぐって対立しており、歴史についてもいさかいを続けている。また、日本は1910年に大韓帝国(当時)を併合し、1945年まで容赦なく搾取した。今日の韓国には、植民地時代の残虐行為についての日本の償いはあまりにも少ないと考える国民が多い。