南スーダンで全国スポーツ大会、陸上自衛隊がねぶた披露

南スーダンの首都ジュバのジュバ国立サッカー場で開催された第2回「結束の日」の開会式で、ねぶたを担ぐ国連南スーダン派遣団に現在参加している陸上自衛隊員ら(2017年1月28日撮影)。(c)AFP/Albert Gonzalez Farran 〔AFPBB News

 一昨年の安保法案審議で、民主党(現民進党)は現実に即した防衛論戦を期待した国民を裏切り、神学論争に明け暮れた。

 その後党名を変え、党首も代わり、政権政党を目指す決意かと思ったが、衆議院予算委員会での論戦を見聞しているかぎり、過去に学ばず、同じ轍を踏んでいる。

 南スーダン派遣自衛隊の日報にある「戦闘」という用語についての論戦は非生産的である。現場感覚で「戦闘」と書いても、彼らが政治用語と承知して書いたわけではない。

 侃々諤々、理に叶った論戦を挑むならばともかく、政府や防衛大臣を苛めたい、失言を引き出したいという感情だけで喧々囂々と騒ぎ立てているだけにしか思えない。

 日報をベースに現場の感覚を吸収して、「日本の安全保障政策」や「派遣自衛隊の安全」を前向きに議論するのが国会であろう。テレビで観ている範囲では、野党の委員は過度に派遣隊員家族の心配を言挙げしているが、本心は別のように思える。

 賞恤金(しょうじゅつきん)が増額されたことに対しても、既に防衛大臣が「過去の派遣地域と比べて危険やリスクという観点ではなく、現実の南スーダンの勤務環境や任務の特質性などを総合的に勘案して決めた」ことを明確にしているにもかかわらず、わざわざ「危険度が高まったから増額した」のではないかと問い、国民に「危険の増大」を印象づけようとしている。

常套句的に使われる「戦闘」

 現場の隊員が政治的配慮なしに、状況描写をつづるのはいくらでもあり得る。感じたままでない加工された表現では、現実からかけ離れた記述になってしまう。

 現場の厳しい状況を率直に表現することは何より大切であり、そこに政治の要請からくる隠蔽などがあってはならない。

 それでも、日本は部隊を派遣して国際協力をしなければならないという現実認識が、与野党の議員を問わず必要ではないだろうか。その認識を欠くならば、従前と同じ机上の空論に堕してしまう。

 平成16(2004)年当時は、イラクに派遣される自衛隊が問題になっていた。西村眞悟衆議院議員(当時)が『正論』(平成16年3月号)に、「満腔の思いを込めて―イラク派遣の自衛官に申し上げる」の掲題で寄稿している。

 概要は部隊派遣によって「この60年間にわたって目を背けてきた『力』の領域に入る」のであり、それは「国家の運営として戦後今まで知らなかった領域」を意味し、「初めて帝国主義列強の作る秩序の中に入った百四十年前の『開国』に匹敵する」と位置づけ、エポックメイキングな歴史として刻まれる壮挙とみるのである。

 西村氏はその冒頭部分で、「国内の左翼及びマスコミは、つい最近まで自衛隊違憲で飯を食ってきた者どもであり、自衛隊のイラクでの『成果』よりも『落ち度』を探すべく待ち構えている。そして、この者どもが、口には出さないが密かに涎を垂らすかのように期待しているのは、イラクで自衛隊員の中から『戦死者』が出ることであり、相手のアラブ人にも死者が出ることである」と記している。