赤坂御苑で春の園遊会

都内の赤坂御苑で開かれた春の園遊会に出席された天皇、皇后両陛下(2016年4月27日撮影)〔AFPBB News

 天皇の「お気持ち」放送以降、国内外で様々な反応がありますが、そうした場であまり触れられていない観点を1つ考えてみたいと思います。

 ポイントは「普通の国民の気持ちと一つになって天皇という個人が祈る/心身ともに存在し、生きる」という点です。

神話からの卒業

 今回の「お気持ち」では、想像を超えて天皇という「個人」の行動と努力、そして加齢や健康によるその限界が詳細に論じられています。

 被災地を訪問し、国民と同じ目線で労いいたわろう明仁天皇の努力は「憲法順守」ならびに「無私」という2点が従来から指摘されてきましたが、今回の放送を通じて「国民と一体化する」という天皇個人の思いを強く感じられた方は少なくないでしょう。

 仮に加齢や病によって寝たきりになったような場合でも、摂政を立てたり、メッセージを発したりすることで「象徴としての務めを果たす」ことができるのではないか。

 そのような意見や反問に、天皇は「そうではない、違う」と非常に強く反論、否定したといった消息も伝えられています。

 では、明仁天皇が皇太子時代から真摯に考え続け、即位以来まさに「全身全霊」をもって考えてこられた「象徴」としての天皇のあり方とはどういうものなのか。

 以下は幾人か関係される方から消息をうかがった私個人の考えに過ぎませんが、明仁天皇は西欧先進国の立憲君主制での王室のあり方を念頭に、キリスト教の倫理に深く影響を受けた判断と行動に努めておられるのではないかと思われます。

 1つには、幼時からカトリックのミッションスクール(聖心女子学院)で学んだ美智子皇后が、3.11直後も、今回も「玉音放送」に(原稿推敲時から深く)サポートしているといった事情が考えられます。

 また東宮参与として天皇、皇太子の憲法と象徴天皇制に関する相談相手であられ、のちにカトリックに入信し「トマス・アクウィナス」の洗礼名を持った團藤重光東京大学教授からうかがった「ネオ・トミズム」の背景を考えることができるでしょう。

 「トミスム」などと言っても、今日の日本語の情報環境はピンとこないかもしれません。

 これは「トマス・アクィナス主義」すなわちEUの統合にあたって、新旧両キリスト教圏にまたがる欧州を「成文法を超えて一体化させる」道徳律として旧約新約の両聖書を第一の規範とし、トマス・アクウィナスの神学を道徳律の参照点としようという考え方と、ここではざっくり述べておきたいと思います。