「卵、食べてもいいんだ」と気づいた日本人

卵料理、その多様化の秘密を探る(前篇)

2016.03.11(Fri) 漆原 次郎
筆者プロフィール&コラム概要

 822(弘仁13)年ごろ成立した説話集『日本霊異記』には、卵を煮て食べていた若者が「灰河地獄」に落ち、爝火(かがりび)に焼き苦しめられる話がある。

 また1283(弘安6)年成立の『沙石集』にも、多くの卵をわが子に食べさせていた母親が夢枕で「子は愛おしきぞ、悲しや」と口にする女に出会い、それから程なくして子を亡くしてしまうという話がある。

 こうして日本人は長らく、鶏だけでなく卵を食べることを避けてきた。

カステラの渡来が解禁のきっかけに

 だが時代は移り、日本人は卵を食の対象としていく。その発端とされるのが室町時代末期、ポルトガルなどから入ってきた「南蛮菓子」だ。

 カステラやボーロなどには卵が使われている。渡来人たちがこうした菓子を罪の意識なく食べる姿を見て、日本人も卵を食べることを“解禁”するようになったと考えられている。

 江戸時代にもなると卵は幕府の食材になっていたようだ。1626(寛永3)年、後水尾天皇の二条城行幸の際には、3代将軍徳川家光率いる幕府は溶き卵をだしなどで調味してつくる「玉子ふわふわ」を出したという。

 日常食でも、1892(明治25)年になって書かれた『千代田城大奥』(永島今四郎・太田贇雄合著、上野新聞)には、将軍の朝食の「一の膳」(本膳)には落玉子(おとしたまご)の味噌汁が、また「二の膳」には卵焼きに干海苔を巻いた卵料理が出されていたとある。

 江戸時代、庶民の間でも卵の食べ方は多様化していった。1643(寛永20)年に出版された料理書『料理物語』では、金杓子(かなしゃくし)に卵を割り入れてそのまま湯煮して吸い物にした「美濃煮(みのに)」のほか、沸騰させた砂糖液に溶き卵を糸のように細く垂らし入れて固める「玉子素麺」、さらに前述の「玉子ふわふわ」などが紹介さている。

 玉子素麺は南蛮菓子の1つで、福岡の銘菓「鶏卵素麺」としていまも食べられているし、玉子ふわふわについては、江戸時代の流行作家だった十返舎一九の『東海道中膝栗毛』の袋井宿の場面で「たまごのぶわぶわ」が登場することなどから、袋井市観光協会などが再現料理として推している。

 ここからさらに卵料理の多様性が開花するのは、『料理物語』から約1世紀半後の1785(天明5)年。『万宝料理秘密箱』という本の出版によってだ。

100以上の卵料理のレシピ集「玉子百珍」現る

 天明年間、豆腐やこんにゃくなど特定の食材で約100の料理を紹介する「百珍本」が流行した。奥村彪生の作による本『万宝料理秘密箱』の前篇には、103種の卵料理が収録されている。そのため「玉子百珍」の別名が付いている。

『万宝料理秘密箱』前篇の見返し。天明5年版の補刻。「一名卵百珍」の文言も見られる。「一名」は「またの名」のこと。(所蔵:国文学研究資料館)
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 この中にある現代にも通じる卵料理をいくつか紹介しよう。

「山吹卵」。ゆで卵の上に卵の黄味を塗り、細い竹の串に刺して、遠火でこがさないように焼く。

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1975年生まれ。神奈川県出身。出版社で8年にわたり理工書の編集をしたあと、フリーランス記者に。科学誌や経済誌などに、医学・医療分野を含む科学技術関連の記事を寄稿。日本科学技術ジャーナリスト会議理事。著書に『日産 驚異の会議』(東洋経済新報社)、『原発と次世代エネルギーの未来がわかる本』(洋泉社)、『模倣品対策の新時代』(発明協会)など。


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