Demonstrators confront police during a protest following the release of a video showing Chicago Police officer Jason Van Dyke shooting and killing Laquan McDonald on November 24, 2015 in Chicago, Illinois. (c)AFP/Getty Images/Scott Olson

 先日、友人Aと友人Bで飲んだ時のこと。友人AとBは私と会社は違うが、この2人は同じ会社で働いている同僚である。

 そこでBに起きたちょっとした事件が話題になった。AとBは同じチームで働いており、そのチームの飲み会が数日前にあったという。

 その飲み会の場所を予約した後輩がチーム全員にメールで時間と場所を連絡したのだが、そのメールの宛先にBだけが入っていなかった。

 この1回だけならまだしも、この1か月ほど前にこのチームで飲みに行った時にも、この後輩はBだけを宛先に入れなかった。

憤慨する友人、平然とする本人

 2回連続で宛先から外すというこの事態を受け、Aが憤慨していた。

 「あいつ普段から結構生意気なんだよな。これ絶対あいつの嫌がらせだよ!」

 確かにそれが嫌がらせだとしたら、かなりひどい話である。しかも先輩相手に。しかし、当の本人であるBはずいぶんと反応が違う。

 「ただ宛先に入れ忘れただけでしょ。確かに生意気なとこあるけど、さすがに嫌がらせでそんなことしないでしょ」

 そう言って、けろっとしている。もともとBはちょっと天然と言うか、ずいぶんと楽観的なところがある。それに対してAは食い下がる。

 「いや、これは絶対嫌がらせだって!」「そうかなぁ」

 双方、議論は平行線のまま。後輩に悪気があったのか、それはその後輩のみぞ知る。AもBも後輩の真意は知り得ないし、後輩はその真意を墓場まで持って行くだろう。つまりこの議論に意味はない。

 相手に悪気があるのかないのか、結局その判断は受け手の捉え方の問題でしかない。

 相手に悪気があるとして憤慨するのもよし。相手に悪気はないとして平然としているのもよし。それは受け手が自由に選択すればよいことである。