緑茶の流行に「永谷園」「山本山」の先人の契りあり

いつもそこにある「煎茶」の歴史と科学(前篇)

2015.06.19(Fri) 漆原 次郎
筆者プロフィール&コラム概要

 こうして「薮北」は、国や静岡県などから太鼓判を押された。さらに増殖に必要な挿し木繁殖の技術も開発された。1936(昭和11)年までには実用化のめどが付いていたというが、日本が戦争に突入するなどして計画は一旦頓挫。彦三郎は戦争が始まる1941(昭和16)年の2月に自宅で亡くなった。「薮北」は彦三郎死後の1953(昭和28)年に、「やぶきた」の品種名でようやく品種登録された。

 戦後、すでに緑茶の輸出は下火になっていた。だが、国内では戦後、生産量が伸びていき、昭和40年代になると高度経済成長を背景に、緑茶のニーズが質と量 の両面で高まった。このニーズに応えたのが杉山彦三郎が手がけた「やぶきた」だ。静岡県の緑茶農家は、県の奨励品種になったこの品種を積極的に栽培。全国 にも知れわたり、爆発的に普及していった。現在、日本で生産される緑茶の約7割は「やぶきた」とされている。

 「やぶきた」の高いシェアの裏には、摘み取り期の集中による労働状況の悪化や、多肥栽培による土壌悪化などの課題もあるという。だが、耐寒性があって、甘みがあり味も濃厚など、品種として優れているからこそ、ここまで普及したとも言えるだろう。

全国の茶畑で見られる「やぶきた」

製法と品種の改良を重ね「緑茶代表」になった煎茶

 急須などの茶具の利用、現在に通じる製茶法の発明、そして新品種の誕生。さまざまな出来事を経て、煎茶は現代まで歩んできた。

 昭和30年代には、駅弁のお供としてポリ容器に入った「ポリ茶瓶」の煎茶が旅行の定番になった。さらに大きな出来事では、1984年に缶入りの煎茶が、1990年にはペットボトル入りの煎茶がともに伊藤園から発売され、煎茶に対する接し方の選択肢は確実に増えた。

 煎茶の位置づけを、改めて考えてみる。

 緑茶の中で、常に“高嶺の花”であり続けたのは抹茶だ。いまも茶の湯に供される緑茶でありつづけている。その対極には、古葉や硬くなった新芽などを原料とした大衆的な番茶もある。

 そんな中で煎茶は、誰もがいつでも、どこでも手軽に飲める緑茶の代表的ポジションを築いた。旨みよりも渋みが中心。何杯でも飲める飽きのこない味。その味覚的な下地がある中で、製法や品種が改良されてきた結果、煎茶は日本人に受け入れられたのではないだろうか。

 現代に目を向けてみると、煎茶を煎茶たらしめる「渋み」の成分は、科学的な視点からも注目を集めている。後篇では、緑茶に対する科学研究の成果を紹介していきたい。(後篇はこちら

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1975年生まれ。神奈川県出身。出版社で8年にわたり理工書の編集をしたあと、フリーランス記者に。科学誌や経済誌などに、医学・医療分野を含む科学技術関連の記事を寄稿。日本科学技術ジャーナリスト会議理事。著書に『日産 驚異の会議』(東洋経済新報社)、『原発と次世代エネルギーの未来がわかる本』(洋泉社)、『模倣品対策の新時代』(発明協会)など。


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