緑茶の流行に「永谷園」「山本山」の先人の契りあり

いつもそこにある「煎茶」の歴史と科学(前篇)

2015.06.19(Fri) 漆原 次郎
筆者プロフィール&コラム概要
鈴木春信作の錦絵「お仙茶屋」

 江戸時代末期から明治時代にかけて、緑茶は、生糸とともに日本の輸出産業の担い手となっていた。その主な輸出先は米国だ。こんなデータがある。明治時代の日本における荒茶(生葉を蒸して乾かした状態のお茶)の生産量は2万~3万2000トンほど。このうち米国への輸出量は1万5000〜2万1000トン。生産量の7割もの量が米国へ輸出されていた計算になる。

 でも、おかしい。明治期、日本人は自分たちのためでなく、ただただ海外に輸出するために緑茶をつくっていたというのだろうか。実は、そうではない。当時、日本の各地には、屋敷の庭の空いているところなどにチャノキが植えられ、お茶を自給自足する家が多くあったという。これらの家で収穫した自家用のお茶は生産量に計上することができなかったため、「生産量の7割が米国へ輸出」といった統計が出たようだ。おそらく輸出量を凌駕するほどの自家用緑茶はつくられていたのだろう。

 明治期、緑茶の中でも煎茶は、常に玉露や抹茶向けの碾茶などを差し置いて、生産シェアの首位を保っていた。そんな中で、煎茶の歴史におけるもう1つの大きな出来事が起きる。いまの煎茶の大多数を占める新たな品種の誕生だ。

明治~昭和、「やぶきた」に生涯を懸けた男

 静岡県安倍郡有度村(現在の静岡市駿河区)の造り酒屋に、杉山彦三郎(1857~1941年)が生まれた。父は酒造りの傍ら、漢方医を営んでいたが、彦三郎は家業を弟に任せて農業を営んだ。明治時代の輸出製品だった緑茶にも着目し、20歳になるまでには3ヘクタールの茶園をつくっていたという。

 まだ、品種の概念がなかった当時、彦三郎はチャノキには、摘み取り後の葉の硬軟や、収穫期間の早晩(わせ)性といった、育ち方の差異があることを見出していた。そして、良質な種類を求めて全国をまわり、自分で開墾した茶園にそれらを植えて育てていった。

 1908(明治41)年頃、彦三郎は静岡市谷田の試験地の隣、竹やぶを開墾して造った茶園から、2種類の母樹を選抜した。そして、やぶの南側にあったものを「薮南(やぶみなみ)」、北側にあったものを「薮北(やぶきた)」と名づけた。

 彦三郎は自ら手がけた「薮北」を含む各品種に対して、世代を経るごとに良いものだけを残していく「選抜」という育成法で改良を試みていった。「薮北」については1931(昭和6)年の時点でまだ「中の上」の成績どまりだったという記録が残っている。だが、その後「薮北」は頭角を現し、彦三郎が手がけた品種のなかでも群を抜いた成績を誇るようになった。

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1975年生まれ。神奈川県出身。出版社で8年にわたり理工書の編集をしたあと、フリーランス記者に。科学誌や経済誌などに、医学・医療分野を含む科学技術関連の記事を寄稿。日本科学技術ジャーナリスト会議理事。著書に『日産 驚異の会議』(東洋経済新報社)、『原発と次世代エネルギーの未来がわかる本』(洋泉社)、『模倣品対策の新時代』(発明協会)など。


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