緑茶の流行に「永谷園」「山本山」の先人の契りあり

いつもそこにある「煎茶」の歴史と科学(前篇)

2015.06.19(Fri) 漆原 次郎
筆者プロフィール&コラム概要

“手揉み”で「黒茶」が「緑茶」に

 売茶翁は生前、煎茶の歴史を追う上で重要なもう1人の人物に会っている。京都・宇治湯屋谷で茶業を営んだ永谷宗円(1681~1778年)である。

 1742(寛保2)年、売茶翁は宗円を訪ねると、新茶を煎じ出された。そのお茶を飲んだ売茶翁は「美麗清香の極品にしてなんぞ天下に比するものあらんや」と絶賛。「身を忘れて数椀数瓶を傾くれば、月は東山に昇り日は西嶺に没す」と時を忘れるほどだったと記している。

 どうして宗円は、それほどまで美味しい煎茶を売茶翁に出せたのか。そこには宗円が試行錯誤の末に発明した製茶技術があった。宗円は、お湯で茶葉を蒸したあと、焙炉(ほいろ)と呼ばれる茶葉を乾燥させるための箱の上で、茶葉を手揉みする方法を考案したのだ。それ以前は、煎茶では茶葉を乾かすために日干しするしかなく、煎茶は「黒茶」だったといわれている。宗円は「緑茶」の名にふさわしい煎茶を世にもたらしたのである。

 宗円の発明した製法は、いま私たちが飲んでいる煎茶の製法の原点といえるものだ。宗円は、自作の煎茶を携えて江戸に行き、日本橋で茶商を営んでいた山本嘉兵衛(4代目)に、新製法の煎茶を売ってもらうよう依頼した。嘉兵衛はこのお茶を「天下一」と名づけて売りだすと、江戸を中心に大いに売れたという。

 永谷宗円は現在の「永谷園」の創始者。一方の山本嘉兵衛はいまも続く「山本山」の4代目。お茶漬けなどで知られる2社の歴史には、煎茶の普及をもたらす上で重要な委託関係があったのである。なお、山本家は6代目の嘉兵衛のとき、緑茶のひとつ「玉露」の開発に成功している。

明治期、「生産量の7割」が米国に輸出?

 江戸時代、煎茶は庶民の緑茶として広がっていった。江戸では谷中の茶屋「鍵屋」で働いていた看板娘の笠森お仙(1751~1827年)が人気者となり、お仙見たさに近くの笠森稲荷は参拝客が増えたという。現在のアイドルのように、1768(明和5)年頃にはお仙が美人画に描かれ、グッズ販売もされた。

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1975年生まれ。神奈川県出身。出版社で8年にわたり理工書の編集をしたあと、フリーランス記者に。科学誌や経済誌などに、医学・医療分野を含む科学技術関連の記事を寄稿。日本科学技術ジャーナリスト会議理事。著書に『日産 驚異の会議』(東洋経済新報社)、『原発と次世代エネルギーの未来がわかる本』(洋泉社)、『模倣品対策の新時代』(発明協会)など。


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