緑茶の流行に「永谷園」「山本山」の先人の契りあり

いつもそこにある「煎茶」の歴史と科学(前篇)

2015.06.19(Fri) 漆原 次郎
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 茶葉を煎じて飲んでいたことを示唆する記述は、ポルトガル人の宣教師ジョアン・ロドリゲス(1561~1633年)が著した『日本教会史』に見られる。ロドリゲスは、この書物では抹茶のことを詳しく書いているが、煎じて飲むお茶についても次のように記している。

 「(日本人は)昔は茶を煮出して飲んでいた。今でも日本のある地方では下層の人々や農民の間でそれを飲んでいる。それを煎じ茶というが、煮た茶の意である」

 ロドリゲスの記述からすると、少なくとも江戸時代初期の17世紀初めには、煎じたお茶が庶民の間で飲まれていたようだ。

 17世紀中には、『本朝食鑑』(人見必大撰、1697年)に、江戸でお茶を煎じて朝飯の前に数杯飲む「朝茶」の習慣があったという記述や、『河内屋可正旧記』(河内屋可正著、1700年頃)に、いまの大阪府南部の河内地方で、煎じたお茶が「昼も夜もなく大変な流行」を起こしていたという記述が見られる。農村から都市部へ、急速に煎じて飲むお茶が広がっていったことをうかがわせる。

 その後、「煎茶の中興の祖」と称される人物が現れる。肥前出身の禅僧、売茶翁(ばいさおう、1675~1763年)である。11歳で出家し、13歳のとき、京都・宇治にある黄檗宗萬福寺で禅を学んだ。その後、東北の陸奥や九州の筑紫へ行くなど日本各地を訪ね歩き、33歳のとき長崎で中国人から煎茶法を学んだという。そして57歳で上洛し、60歳代にして「通仙亭」という茶店を構えた。

 売茶翁が、茶店の前に掲げていたのが「茶銭は黄金百鎰より半文銭までは くれ次第 ただのみも勝手 ただよりはまけもうさず」。つまり「茶銭はいくらでも結構。ただで飲んでも結構。ただより安くはできませんよ」ということだ。誰彼ともなく人を招いて禅を説きながら煎茶を供して、好評を博したという。

 売茶翁の煎茶における功績はそれだけではない。煎茶を入れるための「急須」を用いて茶葉を煎じた初期の人物としても名高い。いまの煎茶の製法につながる形式を築いた1人といえよう。81歳まで「通仙亭」を続けたが、廃業し、愛用の急須なども焼却してしまった。「私の死後、世間の俗物の手に渡り辱められないよう、火葬してやろう」との思いがあったという。晩年、再び俗人に戻り、88歳で生涯を閉じた。

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1975年生まれ。神奈川県出身。出版社で8年にわたり理工書の編集をしたあと、フリーランス記者に。科学誌や経済誌などに、医学・医療分野を含む科学技術関連の記事を寄稿。日本科学技術ジャーナリスト会議理事。著書に『日産 驚異の会議』(東洋経済新報社)、『原発と次世代エネルギーの未来がわかる本』(洋泉社)、『模倣品対策の新時代』(発明協会)など。


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