モーラミャインの街のあちこちに残るイギリス統治時代の洋館

 市内を歩いてみた。30万人の人口を擁するミャンマー第3の都市だと聞いていた割に、街はどこまでも静かだった。

 やんだばかりの雨が地面から水蒸気になって空気中に上っているのが目に見えるようなしっとりとけだるい空気に包まれている。

 イギリスはかつて、山岳地帯から流れ込むタンルウィン川をはじめ3本の川の合流点に位置するこの地にいち早く注目し、道路や軍事駐屯地、市場を川沿いに開設。1827~52年の間、この地には英領ビルマの都が置かれた。

 オーウェルが警察官としてこの地で過ごしたのも、まさにこの頃だ。ヤンゴンのように近代的な高層ビルが混在することもなく、古い洋館と、せいぜい2~3階建ての家屋が並ぶこじんまりとした街並みには、今も当時の様子が色濃く残されているという。

 どことなく「南アジア」の雰囲気を感じるのは、モスクをあちこちで見かけるせいだろうか。道端を歩く人々の中にも、インド系の顔立ちや、サリーに似た服装が多い。

 かつて、この地にはムスリム商人が来訪し、活発に交易が行われていたのだという。市街地の向こう側には丘がなだらかに連なり、金色の仏塔が空に伸びている。時が止まっているかと錯覚しそうなほどの静かさだ。

 再び、モーラミャイン駅。厳密に言うと、エマ・ラーキンがヤンゴン(当時のラングーン)から汽車に揺られてこの街を訪れた時に降り立ったのは、モーラミャイン駅ではなく、対岸の街マルタバン駅だった。

 2006年に鉄道・道路併用橋が開通するまで、人々は列車かバスでタンルウィン川東岸のマルタバンまでやって来て、フェリーに乗り換えモーラミャインに渡っていたのである。

 それでも、10時間近く揺られ、ほっとした表情で駅に降り立つ人々や、物売りの人々が行き交うホームの風景は、おそらく当時から変わっていないだろう。

 バスより格段に安いということもあり、鉄道はこの国でイギリス統治時代以来、人々にとって重要な足であった。

 その鉄道が、今、大きく変わろうとしている。

合同調整会議

 「南北を結ぶ高速道路をぜひ整備してほしい」「日本としては、タイとミャンマーをつなぐ東西回廊の整備を優先したい」――。

 2013年5月23日、首都ネピドーの運輸省内の一室では、熱い議論が交わされていた。運輸省内の公共事業局、内陸水運公社のほか、ミャンマー港湾局、ミャンマー航空局、建設省、ミャンマー国鉄など、この国の運輸交通セクターの関係者がずらりと顔を並べる。