途上国的な発想からの脱却が必要

 工業製品を大量生産する時代は、新しい建造物を次々に造るというやり方には一定の合理性があった。古いモノは壊して、新しい素材を調達した方が、経済全体が潤ったのである。しかし、日本は米国や英国と同様、本来であれば、高付加価値型の成熟国家に移行しているはずのタイミングである。

 こうした成熟国家では、単純に新しいモノを作るよりも、古いモノが持つ価値を極大化させた方が経済的合理性が高いという結果になることも少なくない。こうした付加価値の付け方は、一部の先進国のみが享受できる手法であり、アジアの新興国には決して真似することができないものである。

 だが、こうした決断が下せるのも、企業や社会全体がグローバル化に対応し、より大きな富を得ていればこそと言える。新しい時代に対応できた企業や国家が、逆に古いモノの価値を極大化できるというのは何とも皮肉な話だが、これもグローバル社会の1つの側面と言ってよいだろう。

 日本の文化的遺産というと、神社仏閣がまず思い浮かぶが、それだけではない。日本は世界で唯一、欧米圏外の地域において自ら近代化を実現した国であり、モダニズム建築をはじめ、数多くの近現代建築遺産がある。

 新しく作られたピカピカの首相官邸もよいが、かつて5.15事件において犬養毅元首相が凶弾に倒れた旧首相官邸は、本来であれば、日本がたどってきた民主主義の歴史を世界にアピールできる絶好の近代遺産だったはずだ。現在は公邸として保存されているとはいえ、これが現役の首相官邸として機能していれば、民主国家日本としての歴史認識を何よりも雄弁に語ったはずである。戦後国際秩序における日本の立ち位置が問われている今、こうした歴史遺産がもたらす経済的価値は計り知れない。

 日本もそろそろ、文化的価値の維持と経済合理性を対立軸として捉えるのではなく、同じ文脈でこれを議論し、経済的利益を極大化できる社会にしていく必要があるだろう。