安倍晋三政権の集団的自衛権行使の解釈改憲に関する朝野の賛否は激しいものがあるが、単独の防衛が成り立たない現実の世界で我が国だけが集団的自衛権を行使し得ないことが妥当であるはずがない。

 また、相互主義の国際関係の下で米国の青年には日本の安全のために血を流すことを求め、我が国は応分の負担を負わないことが許されるわけがない。

集団的自衛権の検討加速へ、安倍首相が表明

集団的自衛権について説明する安倍晋三首相〔AFPBB News

 従って、早期に自公両党の合意が成立し多数の政治勢力がこれを支持し、国民も受け入れ、我が国の安全性が向上し世界秩序の維持に貢献することが望まれる。

 しかし、この過程においてマスコミは反対の理由として、戦争をできる国にしていいのかとか、自衛隊員が殺すか殺されてもいいのかと騒ぎ、国会においては一昨年まで政権を担ってきた最大野党の海江田万里代表までが、党首党論において「首相はペルシャ湾の機雷掃海に自衛隊員の命を危険に晒すのか」と追及した。

 それどころか首相に次ぐ自衛隊の最高指揮官の防衛庁長官の職にあった元与党幹部の政治家が有事即応を期して訓練に精励せよと命じておきながら「自衛隊員の大方は戦う心構えにない」とかつてのその職と自衛隊員の志を冒涜する発言をした。

 国防に半生を捧げてきた者として見逃せない深い憤りを感じた。

政治は自衛隊の存在を何と心得ているのか?

 歴史に照らし、政治が国防組織を信頼せず、国防に任ずる者が政治に不信を抱くほど国家にとって不幸で危険なことはない。政府はこれらの妄言を軽視してはならず、その影響の払拭に重大な決意をもって当たらなければならない。

 もとより、自衛隊が危険な任務に赴くことがないように国策を定め国交を調整するのは政治外交の最大の役割だが、日本は侵略を受け国の平和と独立が侵され国民の生命財産が危機に陥っても、防衛出動を発動せず、国際用語の自衛戦争という武力の行使を自衛隊に命じないのか?

 そうではあるまい。必ず自衛権を発動し自衛隊に出動を命じて侵略の排除を図るであろう。この場合、自衛隊員は命を賭して戦わなければならない。従ってそこには戦争をできるようにするとかしないとか、自衛隊員が危険に身を晒すとか晒さないとかの観念的安直な論理が生ずるわけがなかろう。

 また自衛隊が、日本の国際平和貢献の役割のPKO(国連平和維持活動)に派遣され、不幸にして武器の使用をしなければならない状況に陥ったらどうしたと考えるのか。言うまでもなく正当防衛的の挙に出たであろう。

 現に南スーダン第5次派遣隊長は露営地が危険になった時、「出発時、皆さんの夫親子の預かった命は必ず無事連れて帰ります」の約束を念頭に「命を守るためには発砲せよ」と命令したと語っている。

 従って、自衛隊は、創設以来敵に向かって1発の銃弾も発射せず、相手の1人も殺すことなく、1人の自衛隊員も殺されることがなかったのは、幸いにしてこの間、他国の侵略事態が生ずることなく、またPKOの任務遂行中、武器使用をやむなくする事態に陥らなかったからだ。

 それでも安易に今後いつまでも自衛隊は1発の銃弾を発射せず、敵の1人も殺さず、自衛隊員が1人も犠牲にならず国の安全は万全だと考えるのであろうか。

 こんな主張が通るのは防衛を現実のものと冷厳に受け止めず、この任務に服する自衛隊員の身を案じない、無責任な政治家や社会指導者の存在のゆえであろう。かような主張をして恥じない人たちは、多分自衛隊は新式装備を使って戦争ごっこをしているのだと思っているのでもあろうか?

 しかし、自衛官は「兵は国の大事、死生の地、存亡の道」と考え我が国の平和と安全への貢献に使命を感じ、あえて「事に望んでは身の危険を顧みず、身をもってその責務の完遂に努め、もって国民の負託に応える」(自衛隊法第52条 服務の本旨)ことを宣誓(同じく第53条)して敢然自らに義務を課して隊務に服しているのだ。

 現に東シナ海では空海自衛隊機はミサイルを搭載する中国軍戦闘機に異常接近されながらも、黙々と危険を冒して監視警戒飛行に任じ、海自艦艇やそのヘリも中国艦艇の火力管制レーダーの照射(ロックオン)を浴びながら任務に就いている。