7月15日、ロシア連邦を構成する共和国で、極めて異例なことが起きた。バシコルトスタン共和国の大統領が、次期大統領選を待たずに早期退職書を提出したのである。提出したというよりも、「提出させられた」という方がより正確だ。

 バシコルトスタンの歴史が始まったのは1990年10月11日である。ソビエト連邦の自治共和国であったバシキール自治ソビエト社会主義共和国は、「国家主権」を宣言した。そして、92年に新生ロシア連邦の「共和国」として、ロシア連邦と「分権条約」を調印した。

 この条約でバシコルトスタン共和国は「国家」の主権を得た。裁判・警察・検察の制度を独立させ、領土内の資源はバシコルトスタン国民が所有することを明言した。いわば、準独立国家になったとも言える。

 93年にバシコルトスタンの初代大統領となったモルタザ・ラヒモフ(1934~)は、17年間、大統領の座にあった。

 バシコルトスタンは石油・天然ガス・石炭・鉄鉱石等々の資源に恵まれているが、経済情勢は厳しく、大統領の親族がエネルギー部門の企業を私物化するなど、権力の暴走が見られた。

メドベージェフ政権の誕生で足場が揺らぎ始めた

 2005年、バシコルトスタン国民の堪忍袋の緒がついに切れた。

 2003年にはグルジアで「バラ革命」が起き、2004年にはウクライナで「オレンジ革命」が起き、2005年3月にはキルギスで「チューリップ革命」が起きた。旧ソ連諸国で起きたこれらの一連の「カラー革命」に引き続き、3月26日、バシコルトスタンの首都ウファに1万5000人のデモ隊が集結。「ラヒモフを打倒せよ」と叫びながら、レーニン広場から大統領官邸に向かって行進した。

 一方、ロシアでは、2005年1月以来、年金生活者への社会保障特典廃止などに対する反対デモを皮切りに、プーチン政権への批判が高まっていた。

 当時、大統領府長官を務めたメドベージェフは、「もしもロシアで民衆革命が起きれば、ロシアは崩壊する。それに比べれば、ソ連崩壊など幼稚園の発表会のようなものだ」と革命を警戒していた。米国の新聞も、ロシアで起きる「カラー革命」は、赤い(血まみれの)革命にならざるを得ないだろうと同調していた。

 クレムリンは、ロシア連邦を離脱しようとする勢力を牽制するために、強権的なラヒモフ政権を支持することにしていた。2006年、プーチン大統領は、バシコルトスタンの議会に2011年までの新大統領としてラヒモフを推薦した。

 しかし、メドベージェフが大統領となって新政権が誕生したことによって、事情が変わった。メドベージェフからの支持を失って、ラヒモフ大統領の足場が大きく揺れ始めたのである。