平成25(2013)年12月に、我が国初の「国家安全保障戦略」が策定され、これを踏まえ、新たな「防衛大綱」および「中期防衛力整備計画」決定されたことは、画期的なことであり、喜ばしいことである。

1 期待と失望

 国家安全保障戦略に十分な軍事戦略の視点が乏しいのは残念だが、少なくともそのような手順に従って防衛大綱が位置づけられたことは正しい流れだと言える。政府の集団的自衛権の容認への努力や、各国との安全保障対話を積極的に進めている現政府の取り組みには頭が下がる思いである。

 一方、多方面からの称賛があり、防衛計画の大綱と中期計画が固まった今になって議論を蒸し返すのははなはだ心苦しいが、我が国の防衛の基本に関わることであり、時効はないと考え、核心となる1点に絞り意見を申し述べる。

 昨年来、日本の防衛に関して多方面で真剣な議論が行われたことは誠に喜ばしいことだが、国土防衛の本質や国民を置き去りにし、南西諸島の利点と中国の弱点を十分に活用せず、国民受けする空気に流されてはいないだろうか。そもそも日本の防衛というのは、「国民を戦火から速やかに遠ざけ、守り、かつ戦う」であると思う。

 断っておくが、筆者は陸自(陸上自衛隊)のOBであることから陸自擁護論を展開しているのではない。平時の海空の間断のないオペレーションは称賛に値する。むしろ、統合運用こそ陸自の古い体質を変え、戦う組織に変えていく原動力だと言い続けてきた。迷わず「陸海空の統合の柱に日米の固い鎧を着る」ことを目標として突き進んできたことは間違っていなかったと思っている。

 私が言いたいのは、「守りかつ戦う」ことが困難な命題であっても、この日本に生まれた以上逃げることのできない「国土防衛の宿命」ではないかということだ。日本を防衛する時、陸・海・空のいずれかが砂のように脆い歯車だと統合運用は壊れる。そこに役割分担はあっても優劣はないはずだ。

 一方、海空決戦に勝つことこそが南西諸島作戦のカギであるが、それだけが強ければいいというものではないだろう。この戦いに「陸海空と米軍と一体となって勝ち抜く態勢をしっかり作り」、「侵略国に参ったと言わせ、侵略の企図を断念させること」が戦略目標である。

 この際、動的な海・空戦力と、南西諸島と一体となり有利な戦場を与える静的な陸上戦力と、がっちりと力を合わせ、歯車を合わせて戦勝を獲得するのが統合運用の真の姿ではないだろうか。

 新防衛大綱・中期に流れる思想は、最終的に海空優勢と水陸両用機能の保持による「洋上撃破」となっているようだ。第2次世界大戦における英国のドイツに対する戦いが念頭にあるのだろうが、相手のやり方も科学技術も地理的環境も今の日本が置かれている状況は異なることの認識が必要だ。

 一方、英国は本土において地の利を得、迎え撃つ迎撃戦で勝利したことを忘れてはいまいか。南西諸島の抗堪化とその活用なくして、洋上撃破が成り立つのか大いに疑問である。

 さらに、本当に洋上撃破を追求するのならば、米国任せではなく、自らも沿岸部に対する「敵基地攻撃能力」を持たずして成立はしない。しかし、その決意は新大綱から読み取れない。動的な戦闘力で勝とうと思うならば、徹底して攻撃機能を充実させるべきだろう。空母も必要だ。

 海空を強化することに異存はない。しかし、欠落機能として必要だが、規模的にも能力的にも1回しか反撃ができない水陸両用部隊が、海空と噛み合わさる陸自の歯車ではない。

 一方、同じ中期の中には、「島嶼の各種事態に即応し、実効的にかつ機動的に対処するために、陸自の半分を機動師団・旅団化する」と謳っている。まさにこれこそが海空の強化とともに、これらと噛み合う陸自の歯車であろう。

 「洋上撃破」に対する「国民を守りながらの多層防御」である。「取られること」を前提とした国土防衛はあり得ない。「取らせない」態勢を早く作り、守り、かつ戦うことこそ我が国が追求する国土防衛ではなかろうか。

 残念ながら新大綱・中期は、海空戦の生起にかかわらず地上戦が生起する可能性を無視している。事実、ゲリラ・特殊部隊の単独攻撃すら否定している。南西諸島の価値を理解せず、幅のない決めつけで考えていると国土防衛は瓦解する。

 新大綱・中期が出来上がり、すでに定まったというのは誤りだろう。新大綱・中期の捩れを正し、国土防衛の正しい姿を追求していくのに躊躇があってはならない。3年後の中期見直まで間断なく議論されることを期待する。以下、細部について述べる。