北米報知 2013年5月30日23号

 海の女王「氷川丸」――。5月27日は、日本とシアトルを結ぶ航路で長らく活躍を見せた客船「氷川丸」の処女航海を達成の日だ。1930年代から50年代にかけ、当地日系社会と日本を結ぶ上で欠かすことのできない役割を果たしてきた。今年7月は第二次世界大戦後の再就航から60年を迎える。太平洋の架け橋となった同船に改めて目を向けたい。

横浜港に係留されている氷川丸(北米報知アーカイブ)

 運航年30年。氷川丸の歴史を振り返ると、その実績は華々しい限りだ。日米間の横断回数は第二次世界大戦をはさみ延べ254回。

 当地寄港、出港の際には、本紙で日本人乗船者の名前とともに記事が掲載された。旅客飛行機のない時代において、日本とシアトルを結ぶ橋の役割を担い続けた。

 1930年、三菱重工横浜製作所の前身、株式会社横浜船渠がシアトル航路用の貨客船として建造。全長約535フィート、総重量1万1622トン、最高時速18・5ノット(21・3マイル)収容客数は一等79名、二等70名、三等140名の289名。貨物は主に石炭や食料品だった。

 初就航は同年5月13日の神戸発。ハワイ、バンクーバーを経由し同年5月27日にシアトルに到着した。豪華客船とまではいかない中型貨客船の位置付けだったが、洗練されたサービスで評判を呼び多くの著名人が利用した。

 1932年、来日したチャーリー・チャップリン氏が乗船、船内では大好物てんぷらを堪能したという。本紙1960年9月14日刊の氷川丸引退を偲ぶ連載「消えゆく海の女王『氷川丸』物語」の中で、「チャップリンは、天ぷらが好きだというので、彼のためにわざわざ天ぷら料理の特別室をこしらえた」と記されている。

 1938年には柔道の父、嘉納治五郎氏が日本行きで乗船した。カイロで開かれた五輪委員会に出席し、幻となる第12回五輪の日本誘致に成功しての帰路だった。嘉納氏は横浜到着2日前に肺炎により船内で死去する。

病院、復員船から再び貨物船へ

 日米開戦前には「交換船」として在日米・カナダ(加)人、在米・加日本人を日本へ運んだ。日本海軍の病院船、復員船へと役割を変え、1万トン以上の日本船舶として唯一戦争を生き延びる。

 舞鶴で終戦を迎え、1947年まで南太平洋で傷病兵や一般邦人を日本へ運び続けた。多い時で一度に3000人の傷病兵や飢餓に苦しむ一般邦人を日本へ輸送したこともあった。

 その後、北海道航路で食糧や石炭を運び物資輸送に貢献後、1950年に日本郵船が再所有し53年7月にシアトル航路に復帰した。