前回は、ドイツのNGOからアルバニアに配属されている我が娘が、セルビアとコソボの国境で、真夜中に1人だけバスから放り出されてしまったところまで書いた。

 コソボのスタンプのあるパスポートを持っていたがため、セルビアへの入国を拒否されたのである。さて、辺りは右も左も真っ暗闇、家もなければ、人もいない。

ユーゴ崩壊後、血で血を洗う民族紛争が続いたバルカン半島

 バルカンには5つの民族、4つの言語、3つの宗教が入り乱れている。それがかつてユーゴスラビアという1つの国家としてどうにか収まっていたのは、故チトー大統領の指導力とカリスマ性によるところだった。その証拠に、1980年に彼が亡くなると、バルカン半島はたちまち麻のごとくに乱れ、あちこちで内戦となった。

 まず、1991年にスロベニアが、次いでマケドニアが、それぞれの紛争を経て独立、さらに、激しい紛争ののちにクロアチアが独立。そのあとボスニア・ヘルツェゴビナが、やはり紛争後に独立したが、まもなくボスニア内のセルビア人が独立を目指したため、凄惨な殺し合いが長く続いた。

第1次世界大戦前から「ヨーロッパの火薬庫」と呼ばれたバルカン半島の地図(Google Mapより)
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 バルカン半島の問題は、この地域に多民族が存在することだけでなく、それぞれの国家もまた多民族で構成されており、しかも彼らが反目し合い、国内で縦横無尽に争っているところにある。

 例えばクロアチアとボスニア・ヘルツェゴビナでは、内戦中にセルビア人が迫害され、多くが難民となってセルビア共和国へ逃げた。

 そのセルビア共和国は、かつてはユーゴスラビアを仕切っていた国で、住人は圧倒的にセルビア人が多い。

 ところが、セルビア南部の自治州であるコソボ地域だけはアルバニア系の住人が多く、1990年の後半には、コソボ独立を目指すアルバニア人の過激グループ、コソボ解放戦線の活動が活発化し、セルビア軍との衝突が激しくなった。コソボ紛争の始まりだ。

 1998年、コソボで、セルビア軍がアルバニア系住民を虐殺したとして、西大西洋条約機構(NATO)が紛争に介入、セルビアに対して空爆を開始した。翌年には、首都ベオグラードが徹底的に爆撃され、セルビア軍はコソボからの撤退を余儀なくされた。

 そのあと、コソボには治安維持のため国連の機関が出向し、NATO軍も進駐したが、今度は反対に、復讐の念に駆られた同地のアルバニア系住民が、弱小化したセルビア系住民を襲撃し始めた。殺害や拉致、人身売買、セルビア正教会の聖堂の破壊などが頻発し、多くのセルビア系住民がコソボから脱出した。