3月5日、ベネズエラのウゴ・チャベス大統領が死去した。病魔に冒されていることが伝えられていたとはいえ、南米を「反米大陸」とさえ言わしめる潮流の中心にいた、まだ58歳の左派大統領の死は、世界に衝撃を与えた。

チャベス大統領の葬儀に駆けつけた200万人もの市民

 3月7日のジャパン・タイムズ(The Japan Times)のトップ記事の見出しは「Chavez, global hero of the left, dies」。首都カラカスで行われた葬儀には、50か国あまりの友好国から首脳が出席。貧困層に大人気だった大統領の公開安置された遺体に対面しようと詰めかけた市民は、政府発表では200万人にも及び、対面できない者も出かねないことから、公開安置期間は延長されたという。

20世紀初め、油田が発見されたベネズエラ西部のマラカイボ

 1999年、大統領に就任したチャベスは、大統領権限を強化するとともに、貧困対策を強く推し進めていった。このとき、「ボリバル憲法」と呼ばれる新憲法を制定、国名を「ベネズエラ共和国」から「ベネズエラ・ボリバル共和国」に変更している。

 南米の解放者シモン・ボリバルに強く影響を受けたというチャベス大統領は、手がける構造改革も「ボリバリアーナ革命」と呼んでいた。

 ボリバルは、カラカス生まれで、南米アンデス諸国をスペインから解放し独立をもたらすべく、19世紀前半、南米中を駆け巡った英雄。その思想を受け継ぐという意味で「ボリバル主義」を掲げたのである。

エビータ」アルゼンチンのエビータ・ペロンはミュージカルでも有名

 ベネズエラに限らず、南米を旅していて、至る所でお目にかかるのがこのボリバルの銅像。それだけ、この地の人々には偉大な存在なのだが、欧米中心の日本の世界史の教科書ではわずか1~2行の記述で済まされており、あまり印象がないのも事実。

 こうしたラテンアメリカの革命の英雄ということになれば、20世紀の世に現れたチェ・ゲバラの方が馴染み深いかもしれない。世界中、どこに行ってもその肖像をプリントしたTシャツは若者に人気だ。その偶像化された姿はかけ値なしにカッコいいというのである。

 そのゲバラがまだブエノスアイレス大学の医学生だった1952年、アルゼンチンから、チリ、ペルー、コロンビア、そして最後、ボリバルの生まれ故郷カラカスへと至る10000キロ以上にも及ぶ旅を描いた映画が『モーターサイクル・ダイアリーズ』(2004)。

 こうして旅という手段で、見聞を広めていったことが、その後の人生の大きな糧となったことは想像に難くない。

 その後、大学に戻り医師となったゲバラは、エビータ亡き後のフアン・ペロン政権下のアルゼンチンでの生活を拒み、再び中南米放浪の旅に出る。そしてさらなる経験を重ねた末、行き着いた先が中米の小国グアテマラだった。