清は1700年代に、中華帝国始まって以来最大とも言える規模にその支配領域を広げた。現代の中国人が「偉大中華民族復興」を唱えるとき、そこにイメージされているのは、あるいはこの大清帝国の威勢なのかもしれない。

内乱が続発し始めた中国を欧州列強が食い物に

(黄=直轄部、肌色=藩部、ピンク=属国、薄緑=朝貢国、出典はこちら
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 しかし、60年に及ぶ乾隆帝の治世が終わる頃の1800年代初めには、その統治力には制度疲労が顕著に表れ始めていた。

 領域内では、人口急増がもたらした大量の国内貧窮民が社会の不安定要因を醸し出し、あちらこちらで内乱が続発するようになる。

 そして、1840年から2年間続いた英国とのアヘン戦争で、初めてヨーロッパの国家に腕力で敗北を喫する。戦闘に使われた武器(火器と艦船)の性能の差が決定的にものをいった。産業革命の威力である。

 この敗北の結果、清はそれまでの原則だった海禁政策の撤廃を余儀なくされた。5つの港を対外交易のために新たに開き、香港の割譲も約束させられる(南京条約)。そして、同じような条約をフランスや米国とも締結させられた。

 英国や他の国が清とこうした条約をものにするのを見て、ロシアも「この際、我々にも他の列強と同じように海上経由での通商権を寄こせ」と乗り出した。だが、これはあっさりと断られてしまい、バスに乗り遅れることになる。裏で清に英国が断るように仕向けたのかもしれない。

 そのままでは、他の列強が好き放題に動くのを、ただ指を咥えて見ているしかなくなる。しかし、そんな選択肢はもうロシアにあり得ない。出遅れたら、やがてグレート・ゲームの相手となる英国が、先に中国の北東部まで占領してしまうかもしれない。

クリミア戦争に敗れたロシアの矛先が中国に

 1856年に英国が敵に回ったクリミヤ戦争で敗れると、その懸念は一気に拡大して、ロシアは清領の強引な奪取に向かう。

 何せクリミヤ戦争での戦場は、黒海周辺のみならず遠く太平洋にまで及び、カムチャツカ半島ですら英仏の艦隊から砲撃を加えられたのだから。

 その頃までには、ロシア人の南下は徐々にだがすでに始まっていた。アムール河周辺の調査が1840年代からたびたび彼らによって行われていたのだ。ハバロフを撃退した昔と異なり、国境を侵犯する北方人たちに対して、清は有効な処置を取るだけの武力も気力も失っていた。

 ロシアは自分が当事者として加わらなかったにもかかわらず、1858年の天津条約(第2次アヘン戦争の後始末)のどさくさに乗じてアムール河左岸を自国領とし、現在の沿海地域(プリモーリエ)は両国の共同管理地とする愛琿(黒竜江省黒河市)条約を別に結ぶ。

 この愛琿条約は、もう武力行使をちらつかせたロシアの恫喝外交だったようだ。そして2年後の北京条約(アヘン貿易と外国公使の北京常駐を列強に認める)では、共同管理地だったはずの沿海地域もロシアに割譲された。ついでに海上貿易権も清に承諾させて、今度はバスの乗客に加わる。