この夜のクラブはかなりの混雑だった。先月9日、東京・青山の老舗ジャズクラブ、ブルーノート東京のフロアは、一夜限りの大物歌手の登場でざわついていた。出演は八代亜紀。大人の音楽が楽しめるブルーノートには、近年はロックはもちろんJ-pop のスターがステージに上がることもときどきあった。しかし、演歌の王道を行く歌手の登場は初めてだった。

 といっても、この夜の八代亜紀は“ジャズシンガー”として現れた。10月に“Special Jazz Album”と冠した『夜のアルバム』(ユニバーサルミュージック)という新作CDをリリース。従来の八代演歌の枠を超えて話題を呼んだこのアルバムを聴いて感動した人と、ジャズを歌う彼女に対して、言い方は悪いが興味本位で詰めかけた“紳士”が目立ったようだった。

11月9日のステージで(提供:ブルーノート東京、撮影:山路ゆか)

 しかし、いずれにしても、当日はジャンルを超えた彼女の歌唱力に多くの人が唸ったようだった。

 『夜のアルバム』は、彼女が演歌で世に出る前、ナイトクラブで歌い始めた頃を思い出して作ったという。歌謡曲や演歌の実力派には、かつてジャズやブルースを歌っていた経歴を持つ歌手が少なからずいる。

 八代は小学5年の時に、父親が買ってきたジュリー・ロンドンのレコードを聴いてジャズに出合い、それがきっかけでクラブ歌手を目指すようになったという。

小学生のときにジュリー・ロンドンと出合って

 熊本県八代市出身の彼女は、1960年代半ばの高度経済成長期に熊本から上京。当時は米軍キャンプをまわったり、銀座のナイトクラブで歌謡曲やジャズ、スタンダードを歌うようになった。やがて71年に演歌歌手としてデビュー、73年に「なみだ恋」を発表、その後「舟唄」など数々のヒットを飛ばし80年には「雨の慕情」で日本レコード大賞を受賞する。

 代表的な女性演歌歌手として名声を博した彼女だが、2001年に『MOOD』という、エレクトリックなサウンドで、クラブミュージック的にジャズやポップスなどを歌った異色のアルバムを出している。演歌以外の歌の実力もすでに知られていた。

 しかし、今回のアルバムはより本格的にジャズのテイストで歌っている。というより、演歌もジャズもない、歌の魅力の本質をじっくり聴かせてくれるという意味で、奥が深いし味わいも濃い。アコースティックにゆったりと、日本の歌もまじえて、まさに『夜のアルバム』というタイトルに相応しい雰囲気を醸し出している。

 ジャズファンならすぐにぴんとくるだろう。まずアルバムのジャケット。そのハスキーヴォイスから「ニューヨークのため息」と言われたヘレン・メリルの若き日の代表作『ヘレン・メリル・ウィズ・クリフォード・ブラウン』のジャケットを意識しているのは一目瞭然。クラシックなマイクを前に眉間にしわを寄せて歌う彼女の表情がアップになっている名盤で、「You'd Be So Nice To Come Home to」が収録されている。

 一方、『夜のアルバム』のジャケットの方は、同様のクラシックなマイクを前にして八代亜紀が、口をつぐんで憂いを漂わしている。

 アルバムのプロデュースとアレンジは、元ピチカート・ファイヴのリーダー小西康陽。近年では、長谷川きよしのアルバムをプロデュースするなど、彼ならではの個性的な作品を世に出している。