はるばる加賀から江戸まで運ばれた「お氷さま」

日本が“氷先進国”に駆け上がるまで(前篇)

2012.07.27(Fri) 漆原 次郎
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 ただし、この氷は、江戸の将軍が食したり、何かを冷やしたりする実用的なものではなかったようだ。明治時代、下野新聞に連載された「定本江戸城大奥」(永島今四郎ら編、1968年に人物往来社刊)では、江戸城に勤めていた人の証言が次のように紹介されている。

 <氷とは申せ、是は雪塊にて、土中に埋め置きし物なればにや、土芥などの打ち雑りて頗る清からず。されば御台所はお手を付けず分け下さるなり>

 将軍に差し出されたのは器に入るくらいの容量でしかなかったともいう。どうやら江戸時代の氷献上は、幕府に対する藩の忠誠を確かめるための形式的な行事と化していたと考えられる。

 将軍でも夏場はわずかな氷しか手に入れられなかったほど。庶民にとって、夏の氷は夢のまた夢だったろう。加賀藩の氷献上について、こんな川柳も歌われている。

 <こころざし水にせぬうちお裾分け>

文明開化は「函館氷」とともに

 庶民の手に氷が届くようになったのは明治時代に入ってからである。西洋式医療では人を冷やすのに氷は欠かせない。また、新たに食すことになった肉の貯蔵にも氷は欠かせない。文明開化により氷の必要性が一気に高まったのだ。

中川嘉兵衛。『日本冷凍協会誌』1926(大正15)年第5号より
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 しかし、明治時代初期にはまだ寒冷地で採れた天然氷を船などで都市に運ぶしかなかった。当時は米国ボストンからはるばる横浜まで氷が船で輸入されていたのだ。

 そんな折、「氷業の元祖」とも称される人物が登場する。実業家の中川嘉兵衛(1817~1897)だ。中川は、加賀藩の徳川幕府への献上など、狭い範囲でしか氷が利用されてこなかったのを憂えていた。偶然、米国長老派教会宣教師で医師でもあったジェームズ・ヘボンに会う機会を得、米国での貯氷の状況や医療での活用法を知ったのである。刺激を受けた中川は氷業を興すことを決意した。

 中川は富士山麓、諏訪湖、日光などで採氷を試みた後、1866(慶應2)年に横浜の元町で開業した牛肉店に氷室を設立。さらに中川の名を上げたのは、採氷の拠点を函館に移したことだった。寒冷地の函館であれば、氷の厚さは40センチまで発達する。それに、開港した函館港からの船便を利用すれば、横浜や全国はもとより、外国へも氷の輸送ができる。

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1975年生まれ。神奈川県出身。出版社で8年にわたり理工書の編集をしたあと、フリーランス記者に。科学誌や経済誌などに、医学・医療分野を含む科学技術関連の記事を寄稿。日本科学技術ジャーナリスト会議理事。著書に『日産 驚異の会議』(東洋経済新報社)、『原発と次世代エネルギーの未来がわかる本』(洋泉社)、『模倣品対策の新時代』(発明協会)など。


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